とにかく嘘でもいいから空元気にならないと取り巻く空気が澱む一方なので、kocoro持ちだけは明るくするように普段から努めている。澱んだ川には澱んだ生物はおろか、生物すら寄り付かないから。
世間にはソフビの土偶まで需要があるのだと今月のとある取材で感心したが、博物館で見られる本物の土偶には左足が欠けている。ミロのヴィーナスには両腕が欠けている。土偶はよく見ると微妙に左右対照ではないので、遺された右足と同じ模様や形である保証はない。
僕は欠けた土偶の左足やミロのヴィーナスがどんな腕のポーズをしていたのか、あれこれ思い描くのが好きだ。それは完結していないからこそ与えられる自由であり、夢の糊代である。パーツは欠けているからこそ面白い。夢想している間は物語を延々紡ぎ続けることができる。
それはどこか、予測不能な出来事が常に起こり続ける人生のようでもある。未来が予測不能だからこそ漆黒の闇の中に一条の光を見いだし、「明日は出来るかもしれないぜ」とささやかな希望を胸に抱くことができるのだ。
僕は、どちらかと言えば丁々発止のアドリブ芸よりも予定調和なコントのほうが好きだ。前衛的なジャズよりもベタで大衆的な歌謡曲のほうが好きだ。
だが、こと人生に関しては予定調和じゃないほうがいい。明日何が起こるか判らない、オチの読めない毎日のほうが愉しい。しょぼくれた毎日にどれだけ幻滅しようとも、好転に繋がる劇的な出来事が明日になって唐突に訪れることだってあるのだから。
だからこそ、川田亜子さんには生きていて欲しかった。
もう一日待てば、もしかしたら灰色の景色が鮮やかに色づく出来事も起きたかもしれない。
川田さんにイースタンユースの「サンセットマン」という歌を聴いて欲しかった、と思う。
拭えぬ悲しみや傷こそが生きている証なのだと、苦悩を抱えることはとても幸せなことなのだと気づいて欲しかった。
大丈夫だ
大丈夫だぜ
悲しみを消さないでくれ
涙を捨てないでくれ
滲む入り日を
忘れないでくれ
僕だってうっかり悲しみの泥濘に全身を覆われて、いっそこのままぬかるんでしまおうかと考える夜もある。
でも、生きてさえいれば、失意の夜と希望の朝を繋ぐ鎹のような歌と出会えることを僕は知っている。そしてその歌は、一時の気休めなんかじゃ決してないのだ。
せつない風が吹いてる今宵もまた、「大丈夫だ、大丈夫だぜ」と僕は必死になって自分自身に言い聞かせている。(しいな)