
日本が世界に誇る至宝、シーナ&ロケッツがデビュー30周年!
新進気鋭バンドが偉大なる先人に訊くロックンロール・サヴァイヴ術!
1978年10月25日、シングル『涙のハイウェイ』でデビューを果たしてから今年で30周年を迎えるシーナ&ロケッツが、実に8年振りとなるオリジナル・アルバム…その名も『JAPANIK』をリリースした。作詞陣には柴山俊之、クリス・モスデル、山名 昇という常連を迎えつつ、30周年を祝うべくあのウィルコ・ジョンソンと高橋幸宏が書き下ろした楽曲も収録されているという超豪華盤である。更にはルイ・アームストロングの名曲『What A Wonderful World』、チャック・ベリーのロックンロール・クラシック「Johnny B. Goode」、細野晴臣の『泰安洋行』に収められていた大名曲『Pom Pom 蒸気』といったカヴァー曲をロケッツ風に一刀両断するなど、30年経っても尖りまくったロックンロール・スピリッツが不変であることを見せ付けた威風堂々な大傑作アルバムだ。このアルバム発表を祝して、本誌ではロケッツの鮎川 誠とア・フラッド・オブ・サークルの佐々木亮介&岡庭匡志による年齢差38歳(!)のバンドマン対談を画策。不器用ながらロックに懸ける佐々木と岡庭の純真な思い、30年もの永きにわたり日本のロック・シーンを牽引し続ける鮎川の誇りと覚悟がこの対談から窺えるだろう。そして、ロックに対する深い愛情こそがロックし続ける最大の原動力であることも──。(文・構成:椎名宗之)
“これ1本!”ちゅう時はレスポールが最高やね
佐々木:ロケッツはウチの親がライヴにも行ってたし、小さい頃からよく知ってたんです。日本のロックの至宝と言うか、やっぱり凄く大きな存在ですよね。
岡庭:ロケッツは自分の中でローリング・ストーンズと並ぶ伝説的存在ですね。生きるロックの伝説という言葉が一番しっくり来ます。
鮎川:それはそれは(笑)。
佐々木:それと僭越ながら、僕は前号の『Rooftop』で『JAPANIK』のレビューを書かせてもらったんですよ。
鮎川:それは嬉しいな。後で読んでみます。どうもありがとう。
佐々木:1曲目の「PLANET GUITAR」から最高でした。ガーンと行くイントロのギターが凄く格好良くて。
岡庭:僕はとにかく、『JAPANIK』は自分の欲しいギターの音が凝縮されたアルバムだと思いましたね。ギタリストとして心底羨ましい(笑)。
佐々木:岡庭もレスポールを使ってるからね。
鮎川:レスポール、いいよね。
岡庭:大好きなんですよ、レスポールが。レスポールさえあればもう何も要らないってくらいに。
鮎川:だよね。“これ1本!”ちゅうた時はレスポールが最高やね。僕も30年間同じことを言いよるけど、ツアーで1本抱えて行くとしたらレスポールっちゅうのはずっと変わらない。
岡庭:レスポールは音が太くて甘くて、それでいてキケンな匂いがしますよね。
鮎川:うん。助けてくれるよね。たまに違うギターで自分達のレパートリーを弾くと、こんなにレスポールに依存しとったのかっちゅう時がある。レスポールの音も一緒に唄ってるんですね。それをストラトキャスターに変えると、どこか違う曲になる。
佐々木:凄くよく判ります。ピーター・グリーンがストラトを弾いてたらイヤだもんね(笑)。でもホント、『JAPANIK』にはデビュー30周年を迎えたバンドとは思えない鮮度の高さを感じますね。
鮎川:自分達としては30周年っちゅうのを余り意識してないんですよ。ただ、30年やれて本当に良かったっちゅう気持ちはある。今度のアルバムもファースト・アルバムを作る気持ちで僕らは臨んだから、もう冷や汗をタラタラ流しながら曲を作った。10曲溜まるとアルバムになるっちゅう作り方しか基本的にやってないんですよ。いい曲が溜まって、やっとレコードが発表できるようになってからジャケットやタイトルを考えたりするのがいい。スタジオに入る時は“せーの!”でいいプレイが録れればってただ願うだけ。スタジオで起こるステキなマジックと出会わんかな、って。僕らが前もって考えることなんてちっちゃなことであって、音が出てしまえば後は音が僕らを連れてってくれる。見たことも聴いたこともない場所に行くかもしらんし、それが凄く楽しい。
岡庭:まさにレコーディング・マジックですね。
鮎川:うん。ただ僕らはストーンズやキンクスやヤードバーズみたいな音楽が大好きで、あんな音を出したい、かじり付いてでも側におりたいっちゅう一心でずっとやってるから、憧れの音はいつもあるんです。ジミヘンのギターの、あのフワフワッと鳴った感じとかね。
岡庭:僕達もそういったルーツ・ミュージックが好きで、個人的にはフリーとかが凄く好きなんですよ。
鮎川:ああ、言われてみれば見た目がポール・ロジャースに似とる感じするね(笑)。一昨年やったかな、ブルース・クリエイションのヴォーカルだった布谷文夫とルイズルイス加部、それと僕とシーナで一座を組んで北海道でライヴをやったことがあったんです。その時に布谷文夫がフリーの曲をやりたいって言って、「Fire And Water」、「Be My Friend」、「The Stealer」を一緒にやったんだけど、凄く嬉しかった。フリーの曲ができるなんて、夢にも思わんやったから。
岡庭:鮎川さんがフリーの曲をやるなんて、考えただけでゾクソクしますね。あと、僕はディッキー・ベッツ(オールマン・ブラザーズ・バンド)のギターも好きなんです。
鮎川:ディッキー・ベッツは中野サンプラザで会ったことがありますよ。日焼けした農夫みたいに逞しい人だった。
ロックにいざなわれていろんな出会いがあった
佐々木:鮎川さんの自叙伝『'60sロック自伝』を読ませて頂いたんですが、もの凄い数のロックの伝説的ミュージシャンとお会いになってますよね。ページをめくるごとに、この人にもあの人にも会ったのか!? と驚いて、いちいち感動したんですよ(笑)。
鮎川:ロックが連れてってくれたんだと思う。思いだし忘れてる人もいっぱいいるけどね。何ちゅうか、いざなわれたっちゅうのかな。レイ・デイヴィスと会えたのはギター雑誌のセッティングのお陰だし、僕らから「やぁ!」とか言うて会いには行けんですよ。でもね、「ロックンロール・バンドやってるぜ!」って言うと、言葉は通じんでもみんなニコッとなって友達になれるね。
佐々木:フィーリングさえあれば気持ちが通い合えるということですね。
鮎川:うん。今バンドを始めてどれくらい?
佐々木:まだ2年ちょっとですね。今日は鮎川さんにいろいろとアドバイスをお伺いできればと思うんですが…。
鮎川:僕がアドバイスできることがあるとすれば、アドバイスを聞かないことじゃないかな(笑)。2年目の僕に誰かがアドバイスしたとしても、“俺んことが判るわけないやんけ!”って迷惑に思うだけだよ。何事も自分で決めることこそロックが僕に教えてくれたことだからね。ロックはいつでも“キミはイイよ!”ちゅうてくれる。足し算や掛け算で振り分けられたり、点数が明確に出る世界じゃないし、やっとそういう世界を見付けたんだからさ。“やんなさい!”ちゅうだけですよ。マディ・ウォーターズが僕にそう言うてくれたからね、“Keep goin'!”って。
岡庭:今度出る僕らのアルバムが『泥水のメロディー』というタイトルなんですよ。
鮎川:おお、まさにマディ・ウォーターズだね。「Drinking Muddy Water」だ。今いくつなの?
岡庭:21歳です。フリーのアンディ・フレイザーは、バンドに参加した時が確か16歳でしたよね。
鮎川:みんな若かったよね。当時の人達は驚いただろうね、子供みたいな男の子があんな研ぎ澄ました凄い音を出すんだから。60年代のバンドはガキに見られんようにみんな背伸びしとったね。フリーだってきっとそう思っとったろうし。
佐々木:鮎川さんが僕らくらいの頃は、まだサンハウスのメンバーでしたよね?
鮎川:そうだね。29歳までがサンハウス。30歳になった時にロケッツを作った。当時は“30歳になってバンドなんて始められるだろうか?”っちゅう未知の不安でいっぱいだったけど、僕には音楽しかなかったんですよ。とにかく音楽の側にいたい、ギターを弾いていたい。それやったら1回のステージでもやりもうけ、みたいなね。ロケッツで初めてロフトに出た時はホントにそんな感じでした。“これが最初で最後!”ちゅう気持ちでプレイしてた。
佐々木:鮎川さんのロフト初出演はいつ頃なんですか?
鮎川:サンハウスが'76年2月の荻窪ロフトやった。ロケッツとしては'78年8月の西荻ロフトが最初。その時は“鮎川まこと&ミラクルメン”ちゅう自分で付けたわけじゃない名前で出たんだよ。その頃はロケッツっちゅう名前を付けて言いふらしよったけど、周りの4、5人しか知らなくてね。ロフトはそれ1回きりでもおかしくなかったけど、チャンスが巡ってまたやれて、そのうちロフトではプラスチックスやRCサクセションと対バンができるようになった。毎回が生き残り合戦みたいだったよ。対バンを蹴落とすってことじゃなくて、いつも自分自身との真剣勝負だった。それから東京でも徐々に友達ができて、YMOのレコーディングに誘われたんだよね。「Day Tripper」っちゅうビートルズのカヴァーを5弦で弾いた。
佐々木:ロケッツの『真空パック』はYMOの細野晴臣さんのプロデュースでしたけど、今回の『JAPANIK』には同じYMOの高橋幸宏さんが「オー・ロンリーボーイ」という曲を提供していますよね。
鮎川:うん、幸宏がプレゼントしてくれた。とても平凡なコードなんだけど、こんなに美しかったっけ? ちゅうようなEマイナーの響きの曲で、その素晴らしさに感服した。それより何より、幸宏が曲を書いてくれたことがホントに嬉しかったね。こんな僕でも曲の依頼が来んでもないんですけど、とてもプレッシャーになるんですよ。その期待に応えられるだけの曲を作れるかどうか判らんし。だから逆に、僕らが友達に気安く曲をお願いするわけにいかない。実際、僕は言わなかったんですけれども、見るに見かねたスタッフが幸宏やウィルコ・ジョンソンに連絡を取ってくれたんです(笑)。2人とも忙しいのに素晴らしい曲を書いてくれて、とんでもなく光栄ですよ。
やりたいことを死ぬまでやり続けるのがロック
佐々木:カヴァー曲はどういう基準で選んだんですか? 「My Way」ならフランク・シナトラではなくシド・ヴィシャスのヴァージョンをお手本にしているのがロケッツらしいなと思ったんですけど。
鮎川:ロケッツでアルバムを作る中にカヴァーが入ってたらこんな曲がいいなっちゅうのは、僕らなりの理想があるんですね。ドクター・フィールグッドがカヴァーしてるニューオリンズの古いブルースとか、如何にもバンドがカヴァーしそうなレパートリーじゃなくて、コースターズとかロック・ヒストリーの中で貢献してるシブい曲とか、そういうのがやりたい。カヴァーをやる以上はバンドがみんなに気に入ってもらいたかったり、ロックにいざなう側に回った一員としてオリジナルを知ってもらいたかったりする。そういういろんなメッセージを詰め込んだ選曲をカヴァーでしてきたんですよ。ただ今回は、オリジナルとカヴァーの区別を余り考えなかったかな。「Johnny B. Goode」はね、デビューした次の年にテレビ番組で伊東ゆかりさんとシーナが一緒に唄う機会があったんですよ。それで一夜漬けで曲を覚えて共演したんだけど、とてもいい出来だったんです。あの頃すでに「Johnny B. Goode」はレトロの象徴みたいな曲だったんですけどね。
佐々木:50年代に生まれたロックンロール・クラシックですからね。
鮎川:うん。パンクの時代が来た時にピストルズとかがフーをボロクソに言うたりさ、若いバンドが自分達を鼓舞するために古いバンドを名指しでけなしたりしよったんよ。僕はああいうのがイヤやったっちゃ。それって全然フェアじゃないと思ったし、僕らがやりよるバンドの形を見れば判るやん? ドラムを真ん中に置いて、ヴォーカルがセンターに立って、ギターとベースが左右にいて。その形っちゅうのはビートルズやストーンズが僕らに教えてくれたものだし、彼らは彼らでマディ・ウォーターズやハウリン・ウルフといったブルースマンのバンドをお手本にした。そういう歴史があって、今に至るまで何も変わってないんですよ。ロックっちゅうのは基本的には変わらんもんっちゅう意味でもあるっちゃね。極端に言えば、最初にやりたかったことを死ぬまでやり続けるのがロックだから。世の中がどうこう、今日の表層なんちゅうのとは一切関係ない。それよりも“俺は今日も生きとるぜ”とか“好きな女ができたけど冷たいぜ”とか、いつも自分自身が世界の中心なんよ。僕はもうすぐ60歳になるけど、10代のやるロックと何も変わらないことをやってるつもり。年季は多少入ってるかもしれないけど。
岡庭:鮎川さんの弾くギターは、ルーツを感じつつも確固たるオリジナリティがあると思うんですけど、そのオリジナリティはどこから来てるんだろう? と思うんですよ。
鮎川:うまく言えんかもしらんけど、何も怖くないと思うこと、開き直ることが大事なんじゃないかな。ブルースから辿ったロックは、音楽という氷山の一角に過ぎないと思うんですよ。僕なんて、今日に至るまで音楽が何たるかを全く理解してない。それでも、“俺はストーンズのファーストを聴いたから何も怖くない!”って思い込んどるんですよ。そういうことやと思うんだよね。余り萎縮しすぎると、畏れ多くてギターもろくに弾けんやったりする。そこはロックが好きだから許して、ちゅうかさ(笑)。とにかくギターは堂々と弾くことよ。
岡庭:なるほど。
鮎川:あとは少ない小遣いをレコードにつぎ込んで、たくさんの時間をレコードを聴くことに費やして、自信を持つことが大事だよ。僕はずっとそうしてきたから。バンドをやるんやけん、同じバンドマンと話をしたり、彼らの格好いい仕草を盗んでみたりね。そんなことくらいしか答えができんかな。
岡庭:すいません、ヘンな質問で(笑)。でも、鮎川さんの話を聞いてると、音楽に対する並々ならぬ覚悟を感じますね。
鮎川:覚悟があったからこそ人の有難みも感じたね。29歳の時に、これ以上福岡で音楽を続けても広がりがないと思ったんですよ。シーナの親父が僕にこう言うたことがあった。「博多ではサンハウスを知らん人はおらんし、みんな好いてくれとるけど、ウチの孫を食わせることができるんかい、キミは?」って。でも、音楽をやめろとは言われなかった。それどころか、「あんたのギターはいい」って褒めてくれた。「東京に行ってみんなに聴かせて、ダメやったらスパッとやめるか、それとも音楽を続けるか、残りの人生をはっきりさせてきなさい」って言われてね。その言葉が素晴らしく僕を勇気付けたし、それで覚悟を決めることができたんですよ。
シーナがいなかったらロケッツの今日はなかったね
佐々木:当時はARBやルースターズ、ロッカーズといったバンドが“めんたいロック”と一括りにされていましたよね。
鮎川:彼らとは同郷だから当然よく知ってたけど、徒党を組んでやってる場合じゃなかったし、“ロケッツ以外は認めない!”ちゅう覚悟やったよ。とにかく喰うか喰われるかの瀬戸際にあったし、どんなことがあっても音楽を続けたいと思ってた。東京に来た当初はいつ吹き飛ばされるか判らん感じで、サンハウスの菊(柴山俊之)が書いた「Tokyo Cityは風だらけ」の歌詞そのものだった。あの歌詞は、最初ロケッツにくれたんです。
佐々木:ARBの代表曲ですね。
鮎川:そう。僕らはそれを違うメロディで作ったんですよ、音羽のスタジオで細野さんと一緒に。東京で生活するっちゅうことは、僕ら30歳まで九州で育った人間にとっては凄いことやし、もう1日ここにおれるかどうかも覚悟が必要やった。ロフトでライヴやってギャラを貰うことも凄いことだったしね。70年代の幕開けの頃に久留米でライヴを15日間くらいやって、楽屋でギャラをメンバーで3万5千円ずつ分けたことがあったんですよ。その時に僕のロックが始まったんよ。やった! 音楽やってお金を貰ったぜ! ちゅうね。そうやってバンドでギャラを分ける快感を思いがけず知ったら、もう二度とやめられなくなる。
佐々木:自ら退路を断って東京に来たら、1本1本のライヴが自ずと真剣勝負になりますよね。
鮎川:そうだね。本格的な最初のステージがエルヴィス・コステロのオープニング・アクトで、しかもシーナは初ステージだった。どうなるかなと思ったら、シーナが一番凄かった。コードがどうとかリズムがどうとかそんな次元じゃなく、シーナは圧倒的にロックしてた。シーナがロケッツを引っ張って行ったし、彼女がいなかったらロケッツの今日はなかったね。サンハウスを見付けたのもシーナですから。僕らがダンスホールでジェスロ・タルの曲やフレッド・マクドウェルのブルースを“きっと誰か1人くらいは気に入ってくれるだろう”とか思いながら毎晩毎晩やっても、プロコル・ハルムの「青い影」をやってくれないだとか勝手なことを言いよる客ばっかりでね。そんな中でシーナが初めて音楽的なことで話し掛けてくれた最初のお客さんやったし、ロケッツを続けられるのはシーナがロックのアティテュードを持ち続けてるからだね。
岡庭:何て言うか…まさにロック・スターっていう感じですね(笑)。
佐々木:僕は今、鮎川さんがレイ・デイヴィスに会った時と同じ気持ちを味わっていると思うんですけど…。
鮎川:レイ・デイヴィスは僕が思うとったイメージそのままの人で嬉しかった。急にふんぞり返るとかなかったし、東京に来たことを凄く嬉しがってくれとったし。でも、キンクスはその頃「(WISH I COULD FLY LIKE) SUPERMAN」を出したばかりで、負けじ魂に燃えとったと思うんよ。「SUNNY AFTERNOON」が彼らのピークだったと言われて、周りからは“まだやってんの!?”みたいに思われるし、ロック・バンドっていつでもそうやけんね。レコードを作らないと終わったものと思われるし。でも、やるもやらんも自分の勝手っちゅうのがバンドだからね。僕らはこの8年間、レコード作りのことを忘れた日はなかったよ。8年掛かったけどこうして『JAPANIK』を作れたけん、本当に嬉しい。生のありのままの音を録れたから、とても自慢に思ってる。レスポールもいい音出してるしね。
佐々木:そうやってライヴっぽい生音をアルバムで出す秘訣はありますか?
鮎川:レコードではレコードでしかできないことを思い切り楽しもう、って細野さんが僕らに言うてくれたことがあって、それをずっとひとつの指針としているんですよ。レコードはスタジオでしかできんことをやりたいと思うから、ライヴっぽさを出そうとは余り思ってないんです。純粋にいいレコードを作りたいと思ってるから。ただ今回、一番こだわったのはそのライヴ感かもしれない。“せーの!”で出した時の音が僕らには一番似合ってるしね。
同じ音楽を好いとる仲間とのバンドは最高
佐々木:スタジオで音を録る時は、メンバーと向き合って目を見ながらプレイするんですか?
鮎川:目は見ないけど、音で喋り合ってる感じはあります。サンハウスの時はセパレートで録ったこともあったけど、ひとつのスタジオで一緒に音を出してる空気があったほうが僕は好きですね。ベースは音圧が大きいからアンプだけ別の部屋に置くけれど、ナベ(渡邊信之)には出てきてもらってライヴをやるくらい近付いて録ってます。川嶋(一秀)もちゃんと見えよる近さで叩いてる。そうやないと、レコーディングと言えども途中で演奏の流れが変わることもあるから。“もう1回リフに戻ろう”とかね。1人のちっぽけな頭で考えたことよりも、4人が集まって出した音っちゅうのは16倍の凄さがあるんだよ。「Pom Pom 蒸気」っちゅう細野さんのカヴァーを今回やったんだけど、細野さんのオリジナルはキレイに終わる。でも、僕らは最後をもっと煽りたいと思いだすんよ。それはやってみて判るんだよね、演奏してて気持ちいいし。だからフェイド・アウトしよってもどんどん盛り上がりながら消えていく。それはリトル・リチャードやレイ・チャールズから教わったことだね。
佐々木:僕らもレコーディングの時は4人一緒の部屋で演奏することにしているので、ロケッツと同じ考えで凄く嬉しいです。
鮎川:基本よね。基本ちゅうか、それしかないよね。それがバンドやけんね。自分達のバンドにしかできんことやから、威張って誇ってどんどんやって下さい。
佐々木:はい、ありがとうございます。LPがCDになったり、CDからダウンロード配信が主流になりつつある昨今ですけど、鮎川さんには今の音楽シーンがどう映っていますか?
鮎川:心配なことが多いね。便利すぎるのは困るっちゅう感じ。そんなに便利になってたまるか、ロックは情報じゃねぇんだ! っちゅうかさ。あのレコードが欲しいっちゅうて、レコード屋を目指して走るところからが楽しかったのに。昨日までは棚にあったんだけど、大丈夫かな、売れてないかな…ってソワソワしながらレコードを買ってた自分のガキの頃を思うと、今はレコードを買う楽しさが薄れとるよね。ジャケットの封を切った時に感じるインクの匂いとか、ちっちゃい文字で書いてあるクレジットとか、レーベル・ロゴの色や形とか、全部がアートでありカルチャーだった。しかも音が出て、音は気ままで人の家で聴いた音のほうが良かったりとか、1枚のレコードでいろんな楽しみ方ができたんよ。それが0と1のデジタル信号に置き換わって、僕も4、5年はCDを楽しんだけど、どこか味気なくてレコードを大事にしたいと思うようになった。レコードは地球人にとって自慢の芸術作品だからね。ダイヤモンド針で削るから摩耗もするし、かさばりもするけど、そうやって手の掛かる厄介なところも含めて愛おしい。いち早くその音を聴きたいっちゅう気持ちに応えられる意味で配信はいいと思うけど、レコードと違って音を聴く以外の楽しみがないし、ロックと触れ合う部分がだいぶ削除されてしまってもったいないよね。でも、みんなに僕らの音楽を聴いてもらうのは基本やけん、その意味では配信とうまく付き合っていかなくちゃとは思う。
佐々木:手間が掛かって摩擦係数が高いのがロックですよね。バンド自体、人と人の摩擦からどこにもない音が生まれるわけだし。
鮎川:そうだね。バンドは同じ音楽を好いとる貴重な仲間でやるものだからね。いろんなことを教え合って、同じヴィジョンを持っているから一緒にバンドがやれる。僕らは契約に縛られてやってるわけじゃないし、純粋にロックが好きでバンドをやってる。ロックが好きな思いを共有してきたからこそ、ロケッツは今日までずっと走ってこれたんですよ。
岡庭:そうですよね。僕らも最高だと思えるライヴを4人で共有できる瞬間があるからこのバンドをやってるんだと思うし。
鮎川:うん。一緒にレコードを聴くのが仲間になる一番簡単な方法だよ。日本にライヴハウスが出来るまで、僕らはずっとそうしてた。ロック名盤ガイドみたいなもんに頼らんでもいいし、自分がビビッと来たものを信じればいい。みんな正解ばかりを求めて名盤と呼ばれるものを聴こうとするけど、何かの縁で出会った1枚のレコードこそが素晴らしいんよ。その1枚のレコードを同じように好いとる仲間がいたら最高やね。そんな仲間とバンドがやれたらもっと最高やね。バンドにしかできないことってたくさんあるし、ステージの喜びを仲間と分かり合えるし、バンドは最高だよ。
佐々木:ホントですよね。僕らこれから、夜にライヴがあるんです。鮎川さんの話を聞いて、今日は凄くいいライヴができそうな気がしてきました(笑)。
鮎川:自分の中にも自分の知らんもんがいっぱい潜んどるからさ、ステージっちゅうのはそれを出してもいい場所だよね。いろんなことが試せるし。ライヴは1回やると、必ずもう1回やりたくなる。そんなことを続けてたら、30年なんてあっという間に経っちゃうよ(笑)。

SHEENA & THE ROKKETS
JAPANIK
VICL-62803 / 3,000yen (tax in)
VICTOR SPEEDSTAR RECORDS
IN STORES NOW
★iTunes Storeで購入する(PC ONLY)
SHEENA & THE ROKKETS official website
http://www.rokkets.com/