捨てられぬもの、守り続けたいもの──
『TARZAN』で提示したロックの肉体性への回帰
吉川晃司が『Jellyfish & Chips』以来4年振りに放つ通算16枚目のオリジナル・アルバム『TARZAN』は、躍動感に溢れたダンス・ビートと硬質なギター・ロックを融合させるというまさに吉川にしか生み出し得ない未踏の音像を見事に具現化した一枚であり、過去最高にメロディアスでエキサイティングな楽曲の数々は、先鋭性と大衆性が絶妙なバランスで共存したスタンダード性の高さを誇っている。
タイトル・チューンの「TARZAN」に吉川が万感の思いを託した、強きを助け弱きを挫くこの浮き世を生き抜く現代人に対するメッセージの真意とは? 生まれながらの表現者として常にアウェイで勝負を挑み続けるその姿勢の根底にあるものとは? そうした問い掛けをしたくてミックス・ダウンを終えたばかりのK2氏を直撃した。その結果、本文を読んで頂ければ判る通り彼一流の反骨精神が如実に表れたインタビューとなったのだが、この『TARZAN』というアルバムは本来、純然たるエンタテインメント作品として理屈ぬきに楽しめるものである。先行シングル曲「ベイビージェーン」が温かい春の麗らかさを醸し出しているように、その表情は明るく柔和な笑みを湛えており、聴き終えた後に失くしかけた元気を取り戻せること請け合いの濃密なエネルギーに満ち溢れていることを付け加えておきたい。(text:椎名宗之)
自分が粋だと感じることを追求するだけ
──最新作『TARZAN』を一言で言えば、“生身の音楽”という印象を受けたんですよ。
吉川:ダンサブルなビートの上に今風の音色やフレーズを持ったギターがハマるという、ミスマッチなものが重なり合うのが面白いと思ったんです。ジーザス・ジョーンズがテクノやハウスとロックを融合させた手法で出てきた時に、“ああ、この手があったよね”と思ったわけですよ。ああいうサウンドは余りに個性的と言うかインパクトがあり過ぎて、刹那的な要素を孕んでいることも否めないんですけど、フランツ・フェルディナンドが出てきた時にも同じ印象を受けたんですよね。基本的にはバスドラが4つ打って、ハットが裏なだけなんですけど(笑)。要するに、そういうサウンドが自分にとって凄く新鮮だったんですよ。言うなれば、久しぶりに食べたものみたいな感じですかね。「懐かしい! ガキの頃によく食べたよなぁ…」って言うか、そういう瞬間って新鮮じゃないですか? でも、それでなおかつ味も微妙に今風に違って、新しくもある。ファッションでも、ジーンズで言えばベルボトムがスリムになって、またベルボトムに戻るという周期がありますよね。細くなったり太くなったりするネクタイもまた然りで。それは音楽も同様で、僕にはいわゆるディスコ・サウンドが凄く新鮮に聴こえたんです。自分が粋だと感じたものをやるってことでいいのかなと思って、サウンド的なコンセプトは基本的にディスコ・ビートで行こうと。
──1曲目の「TARZAN」に顕著ですが、そうしたサウンドと精神性が一体化しているところが大きな特徴だと思うんです。今の時代において新鮮と思えるビートとサヴァイヴァルしていこうとする意志が繋がることで、お互いを勇気づけていくと言うか。
吉川:そうですね。詞におけるコンセプトや精神的なものがサウンドとシンクロしていかないといけないと思ってますから。やっぱり、コアなファンは速い8ビートのロックンロールを求めてくるから、先行シングルの「ベイビージェーン」にしても賛否両論なのは当然だと思っていましたけど、保守的なものばかり作って「俺はロックだぜ!」って言ってることのほうが後ろ向きな気がするわけですよ。そこはどれだけ誤認されようが、今の自分がステキだなと思えることを追求するだけです。80年代のディスコ・ブームが終わった後の、いわゆるニュー・ウェイヴとかニュー・ロマンティクスと呼ばれた時代の音楽も、ひと回りして新しく感じられるように思えたんですよね。たとえば、ビリー・アイドルやユーリズミックスみたいな踊れる音楽は、8ビートなんだけど2拍でリズムが取れるようになっている。そういうのが自分の世代はド真ん中で、大貫憲章さんがツバキハウスでやっていた『ロンドン・ナイト』で流れる音楽は、ロックでも踊れるナンバーばかりだったんですよ。
──確かに、クラッシュの「Rock the Casbah」は充分踊れるダンサブルなナンバーですからね。
吉川:そうそう。あの曲も、当時『ロンドン・ナイト』で「この曲、なんですか?」って大貫さんに訊いて知ったんですよ。そういう懐かしさもあったし、フランツ・フェルディナンドみたいなイギリスの今の若いバンドはそういう音楽をリアルタイムでは聴いていないだろうけど、後から聴いて恰好いいと思えたんじゃないですかね。今回のアルバムの2曲目「プレデター」は、自分の中のイメージはビリー・アイドルなんですよ。緩いんだけど刺々しい感じ。1曲目の「TARZAN」にしても、典型的なディスコ・ビートにひとつのギター・リフがずっと鳴っている音を作りたいと最初に思ったんですよね。普段自分がやっているものよりも、もっとストーンズ的な余り歪んでいないカッティング・ギター・リフと言うか。作り方としてはド洋楽なんだけれども、そこに日本人らしい叙情的な感じを出したいと思ったんです。サビはずっと同じリフなんだけどコードが変わっていくところは、結構うまくいったと思ってますね。そういうのはなかなか計算してできるものでもなかったりするので、出来た時はかなり嬉しかったです。「TARZAN」は最初、アルバムから抜いていた曲なんですよ。曲自体はあったんですけど、レコーディング期間の最後の3日で急遽入れることにしたんです。
──この「TARZAN」という曲がなければ、画竜点睛を欠く作品になっていたでしょうね。
吉川:そうかもしれないね。この曲の代わりにあったのは、もっと今のダンスフロア・ロックっぽい曲だったんですけど、変化してゆく経緯としてはちょっと判りにくいかもなと思ったんです。やっぱり収録曲に詞がハマって、最後の1週間くらいにならないとアルバムの全体像は見えてこないんですよ。デモ・テープで適当な英語で唄っている段階だと、たとえば「Love Flower」という曲はブライアン・フェリーやデヴィッド・ボウイっぽく作れるわけです。でも、レコーディングで日本語詞を乗せた途端に凄く湿度が上がるんですよ。そういうのは、詞がハマってみないと俯瞰で見られないんですね。英語と日本語の基本構造の違いもあると思いますし、やっぱり日本語って凄く難しいんですよ。どうしてもベッタリしてしまいますからね。
非常に有益だったDISCO TWINSとの共同作業
──「Love Flower」は、ソリッドなサウンドと日本語的な柔らかさが融合した独特の浮遊感があって、不思議な世界を醸し出していますよね。
吉川:「Love Flower」みたいな曲は、自分でも作っていると楽しいんですよ。もうニコニコ顔で作っちゃうんです(笑)。
──ブラック・ミュージックの一番肉体的な部分や衝動的な部分からプリミティヴな部分を抽出した結果、必然的にこうしたサウンドになった気がしますけれども。
吉川:仰る通りです。音楽を聴いて身体が自然に動くっていうのはそういうことですからね。自然に身体が動く音楽をやりたいし、そうなるとよりプリミティヴなもの、野性の感覚にグッと引き寄せられるんです。
──『TARZAN』というタイトルからして、野性とか本能、衝動という意味を強く表していますよね。
吉川:うん。音作りは歌のコンセプトとシンクロしたものにしたかったし、それにはダンス・ビートが不可欠だったんです。まぁ、ダンス・ビートやディスコは誤解されがちな言葉なので、使うことに慎重になってしまうんですけど…僕らの世代にとってディスコと言うと、やっぱりどうしても『サタデー・ナイト・フィーヴァー』的な世界になってしまうんですよね。目指したのはそういう、日本における第1次ディスコ・ブームっぽい感じじゃないんですよ。ブラック・ミュージックの本物感は、逆に排除してしまっていると言うか、ブラック・ミュージックに憧れて、でも出来ない滑稽さ加減を良しとする感覚。白人は黒人ほどのノリは出せないけれども、その白人がやるブラック・ミュージックこそが恰好良かったりする場合があるじゃないですか? タイミングがちょっとずつずれてしまってるんだけど、まぁええやないかっ! 大事なことは他にあるねん! みたいなね。
──ええ、凄くよく判ります。このアルバムには村上“ポンタ”秀一さん、坂東慧さん、菊地英二さん、そうる透さんなどいろんなドラマーの方が参加されていて、それぞれの違った肉体的なビート感が出ていますよね。ダンス・ビートでありながらも、最終的には生身のビートであるという。
吉川:そこはもちろんこだわりましたよ。ただし、じゃあ打ち込みマックスなデジタル物には拒否反応かと言うとそういうことでもなくて、結構興味あったりもするんでね。なんだろう、“隣の芝生にも寝てみにゃ判らんだろう!”的な感覚なのかもしれないけれど、“DISCO K2 TWINS”名義で『Juicy Jungle』を発表したり、日本武道館でのライヴにDISCO TWINSに参加してもらったのも、言うなれば右翼と左翼みたいな対極にあるものを己の中で融合させてみて、頭じゃなくて身体でそのミックス・ジュースを味わってみたかったりね。僕達みたいに楽器をやってる連中は、彼らが何を思って音にしているのか想像つかないところがあるし、その作業に直接触れてみたくてね。一度他流試合をしてみないことには、その体温は判らないですからね。なんと言うか、たとえば「グローヴをして殴り合いをするようなヤワなボクシングの連中とは勝負にならない」と話す空手家がいるとするじゃない? でも、実際にボクシングをやってみると、手袋を付ける拳は握りもまったく違うから、当たった時の痛さや破壊力の質がまるで違う。それは、彼が一度でもボクシングに触れてみないことには絶対に判らない境地ですよね。DISCO TWINSの関わりは、僕にとってそんな感覚に近かったですね。
──DISCO TWINSとの作業を通じて得たものはどんなところですか?
吉川:作曲における基本構造がまず僕らとは違いますよね。僕らの場合、Aメロ、Bメロ、サビがあるとしたら、サビが一番浮き上がるようにアレンジをするわけです、基本的に。それは歌謡曲もロックもポップも同じで、サビがドーンと来た後にAメロやイントロに戻る時はちょっと落としたり、サビをトップに持ってくる波を作り出すわけなんだけれども。彼らの世界が面白いのは、継続して踊っていられながらヒートアップしてゆくことが根幹にあるわけなんだろうから、曲の波が直線的に上昇していく感じなんですよね。その間にサビが来てもAメロに戻っても、右上がりの直線にするために曲の最後のほうにどんどん音を足していくから、1サビと2サビのオケがまるで違うと言うか厚みがね。言葉にすれば至極単純なことですけど、僕はそれに驚いてみたりして。彼らの曲にもサビはあって、「サビを持ち上げて強調したりしないの?」と訊いたら、「ゼロか100です」と言う。全部の曲がそうというわけではないけれども、曲作りのセオリーとしてはそういうものなんですよね。デジタル音楽のいいところも悪いところも自分なりに理解できて、凄く収穫がありましたよ。そういった経験も、この『TARZAN』の制作においてジャブとして効いてますよね。
強者に対するアンチテーゼとしての「TARZAN」
──ダンス・ビートは吉川さんの音楽を語る上で欠かせないキーワードですが、従来のダンス・ビートの切り口とは明らかに異なるサウンドがこの『TARZAN』で提示されていると思うんです。
吉川:いわゆる打ち込みモノっていうのは、かれこれ20年以上やってきていますからね。自分の中では、生のグルーヴを生み出す面白さや探求心がどんどん増えていく一方なんですよ。ダンス・ビートと言っても、プレイヤー全員で「せーの!」でやるのが一番いいと思うし、より生身な方向に行くのは僕の中で極々自然な流れなんです。今の時代、ダンス・ビートを人力でやることこそが逆にクールだと思ったりしてます。それは社会的背景も影響しているのだと思う。世の中なんでもかんでも合理化、デジタル化していく一方でしょ? ならばどうだろうか、身体で奏でることのほうが今はクールなのかもしれないじゃない?
──そのほうがよりダイレクトに、より深く伝わっていくものでもありますよね。
吉川:そうじゃないかと思いますよ。
──デビュー20周年の節目に村上“ポンタ”秀一さん、後藤次利さんとの3ピース・バンドでツアーを回った『Innocent Rock』('04年7月)、山下洋輔さんを始め総勢11名の豪華ミュージシャンを迎えたスペシャル・ライヴ『エンジェルチャイムが鳴る夜に』('05年12月)などを通じて得た経験も、この『TARZAN』に成果として表れているんじゃないですか?
吉川:そうですね。机上の空論で物事を進めてみても、自分はそれを血肉化できない質であるというのが大きいでしょうね。3ピース・バンドがいいだろうと頭の中で思っていても、実際にやってみないと判らないんですよ。知識はいくら積んでも知識でしかないと僕は思うんです。自分の身体を使って消化した後に、経験値として知恵を積んでいかなければ身になりゃしねぇだろと思う質なんですね。たとえばデジタルならデジタルそのものを全否定するわけじゃなくて、実際に自分でデジタル音楽をやってみてからその良し悪しを決めたいんですよ。コンピュータが要らないなんて僕は絶対に思っていないし、実際フルに使っているけれども。要は付き合い方であろうし、何がクールで恰好いいかっていうところで、要所要所において自分の美意識の中で選択していきたいんですよ。今どきコンピュータも携帯電話も使わないっていう人は逆にこだわり過ぎと言うか、そりゃちょっと意固地なんじゃないかな。
──「TARZAN」の歌詞は、巨万の富を得て傲り高ぶる者、そうした人間を時代の寵児として祭り上げる現代社会を生き抜く人間に対して、自分を全部晒して戦い抜けという強いメッセージ性に溢れたものですが、強きを助け弱きを挫く殺伐としたこの世の中をサヴァイヴする象徴としてターザンが選ばれたわけですよね。
吉川:そういう意図もありますね。自分が今一番言いたいことを象徴する存在がターザンだったんです。強い者ばかりが幸せを独占する今の世の中にうんざりしてしょうがないわけですよ。強い者と言っても心身が強いわけでもなんでもなくて、金や権力を持ってるんで強そうに見えるだけの連中を指すんですが、今の世の中、計る物差しがそれでしかないというのは如何にもお粗末だ。弱い者は虐げられ、不幸のドン底に突き落とされる。おいおい人間社会ってのはそんな薄っぺらなもんだったのかい? と。金や権力に躍起になる連中っていうのは汚れもヒドいでしょ、そんなものにはなりたくないなぁ。人間、いつか死ぬわけで、あの世に持って行けるわけでもあるまいし、いつか、結局は誰か他人の手に渡ってしまうようなシロモノ。それが判ってりゃそんなものに躍らされるのは愚の骨頂じゃないだろうか? と思っちゃうもんだから、そこに価値は見出せないんだな。じゃあ、人間はどう生きて何を残すべきなのかと考えた時に、その人それぞれの生き様や精神性…何を考え、どういうふうに生き抜いたのかが大事なものだと思ってしまうわけです。
──一方では、ターザンは孤高の存在の象徴として語られることもありますよね。
吉川:でもそれは人間が勝手に思うことであって、彼らは言葉を持たないぶん、人間の想像を遙かに超越した次元で動物とのコミュニケーション能力を持っているのかもしれない。言葉があるぶん、人間は裏切ったり嘘を駆使してしまうのかもしれない。少々キツい皮肉だけれど、そんなふうに思ってみたりもして。まぁ、ターザンは架空の人物ではありますけどね。
──でも、シンボリックな存在ではありますね。
吉川:ええ。現代における過剰な物質文明の向上(?)に対しての危惧的な意味合いもありました。モノはどんどん便利になって未来に向けて加速していくけれど、その根底を支えるべき精神文化が置き去りにされている、と言うか既にだいぶ死滅してしまっている。「まずいぞこれはっ!」「便利って幸せなのか?」という未来に対する落胆が凄くあるんですよ。物質的には豊かになる一方で、本当に欲しいモノはどんどん消滅してゆく現代社会を顧みた時に、ターザンはアンチテーゼでもあるのかなと。計る物差しが金や権威、権力一辺倒! それがこの先成熟するであろう資本主義の理想型だとするならば、それはドヒャヒャだよね? この頃テレビでよく耳にするセリフでね、「日本ではまだ定着していないけど、欧米では今や当たり前のことなんですよ」なんてのがあるけれど。欧米のほうが先に堕落しちまっただけの話かもしれないじゃない? 単純に先に資本主義が始まったぶん。なんでそうは考えないのかなぁ? その根本、基本構造がマズイものだったのかもしれないじゃない? そういう意味では、世界中のどの国だって発展途上の今なんだからねぇ。これが現代日本人の悲しい性なんですよ。アメリカに戦争で負けて、食べるものもなく“ギヴ・ミー・チョコレート”で戦後の復興が始まった最中に米国制作のコマーシャルが氾濫するわけだけれども、そこには、いつでも新鮮なものが食べられる大きな冷蔵庫が各家庭にあって、車もあって、奇麗なドレスを纏ったママが笑顔でテーブルに豪華な食事を運んでくるというなんとも豊かで幸せな光景! そりゃあアメリカンナイズされちゃうわけだよね。今の僕達が想像するだけでも無理もない話ではありますが、そういう欧米コンプレックスもそろそろ考え直さなければいけないんじゃないかな。決してアメリカ人が嫌いなわけじゃないですよ、実際友達もいるし。ただし、ヴェトナム戦争然り、イラク戦争然り、あの国政に対しては無性に腹が立ってます。
どれだけ絶望してもくたばるまいぞ!
──「TARZAN」は今の時代において納得の行かないことに対して反逆の旗を立てた曲ではあるけれど、虐げられた弱者に対する共感や温かい眼差しというものが、このアルバムの大きな魅力のひとつになっていると思うんです。かつては自分さえピュアに生きられればいいというところで完結していたものが、エールを贈る感覚に移行してきたと言うか。
吉川:たとえば宮本武蔵のような孤高の存在になる覚悟があるのなら、そういう発想もいいと思うけど、武蔵は結局のところ個でしか成り立ちようもなく、言わば社会との決別ですよね。それもいいと思った時期はありましたけど…それじゃ伝わらないよなぁとある時思い直したんですよ。自分は決してアウトローになりたいわけじゃないしね。アウトローって呼ぶと響きは良いわけだけど、その実はなんだろうか、たとえばサファリパークにいる肉食獣のような、本人はサヴァイヴァルを生き抜いてる気満々なんだけど、ほら、よく見渡せば檻に囲まれたサファリパークの中、餌は飼育された足の鈍い兎を狩ってご満悦、天敵はまた別のサファリ風の檻ん中だからご安泰! みたいなね。そんならやっぱり。たとえば僕が虎だとして、強ええ奴らは東京というちっせえ檻に集まってるらしいという噂を聞いてジャングルから上京するわけですよ、腕試しにね。そこには鍵のかかってない檻があって、逃げたけりゃいつだって出られる枠ではあるんだけれど、戦うんなら己から入っていかなならんわけです。で、そこにはブローカーがいて、やれ手枷、足枷をつけて上手くコントロールして一儲けしてやろうと企んでいる。何やら最初は踊らされてるフリをしなきゃならねぇ、掟もあるらしいぞ、と。そんじゃあ〜ってんで対戦してるうちに操ろうとする糸をバシバシと断ち切ってゆくわけなんだけれども、いやはや中にゃシブトイ操り糸もあってねぇ、全部取っ払うにゃあ一苦労、暫く時を要するわけだなぁ。しかしまぁ、強ええ奴とか権力者だの、ブクブクな金持ちとやりたいだけ対戦はできるわけだから、やっぱり虎は少々手足が不自由であってもね、そこから出てゆこうとはしない。出てゆけば己に負けることを知っていると(笑)。だからまぁ、鍵はいらねぇ檻ね。アルティメットみたいな感じ?(笑) ジャングルに帰るのはつまらねぇし、サファリパークに住むのも嫌だなと。…どうでしょうか? 事の喩えが判りにくいかなぁ?
──いやいや、凄く判りやすい喩えだと思いますよ。それと、周りの人間に対して「おまえをぜんぶ晒せよ」と促すパワーや説得力もこの「TARZAN」には充分ありますね。
吉川:でも、自分も40代になってある程度世の中の仕組みが判ってくると、反面では怖い部分もあるんですよ。勝負を挑む姿勢を貫くことは誰かを必ず傷つけることになるやもしれないし、犠牲も伴う。敵を後ろから殴って倒して、それでも勝ちは勝ちだとする若いうちはまだいいですよ。でも、この歳になると時に味方なのかもしれないエリアを潰さなければいけないようなイクサもある。その折り合いをどう付けるかはこれからの課題だし、自分が一番恐怖に思うところだし、そういう矛盾は正直あるんです。だから決して恰好いいことばかりじゃないんですよ。もう至極滑稽と言うか、ドン・キホーテみたいなところが多々あるわけなんです。
──でも、それが仮にドン・キホーテみたいだとしても、かつてはより孤高の存在だった吉川さんのイメージが、今回のアルバムではみんなが吉川さんのもとへ集ってくる感じはありますよね。最後の「Juicy Jungle」にしても、みんなで雄叫びを上げてジャングルの中で戯れている印象があって、そこが従来とは大きく異なると思うんです。
吉川:まぁ、少しは大人になったんでしょうね。「俺は孤独だぜ」と言ってみたところで、「じゃあ独りでやりなよ」と言われれば寂しい(笑)。日本という国がこれだけ強烈に疲弊している状況で、まず何より「みんな元気になろうぜ! モチベーション上げようぜ!」っていう意識がある。僕の友人に、上司に騙されて身代わりに責任を負わされた末に業界を追放された男がいてね。そんな卑劣な野郎はぶった斬ってやれー! と言いたいところだけれど、浮き世は複雑だからねぇ、悪くない連中まで道連れにしなきゃ斬るに斬れないような縺れ方もしてたりもして、断腸の思いで彼はそれを呑み込んで疲れきってしまうわけなんだけれど。どれだけ絶望してもくたばるわけにはゆかない、落とされようが落ちようがドン底の土を踏む一歩手前で踏ん張っておかないと。モチベーション、人間力の基礎体温みたいなものがなくなったら浮上できないですからね。どんな状況にあれ、誰しもがみな苦境に立ち向かって奮い立たないといけないし、それは自分自身に対しても常にそう思っていますから。そういった思いをこの『TARZAN』の中でひとつの本筋として託したかったんですよ。
──「TARZAN」がある一方で、一見アルバムのコンセプトから外れたような「ムサシ」という曲も収録されていますが…。これは言うまでもなく、宮本武蔵をモチーフにした曲ですよね。
吉川:そうです。作詞を手伝ってくれたjamに「なんでこんな曲を入れるんだ!?」と猛反対されたんですけどね。散々シバリを付けてアルバムの曲を作ってきたのにっていう。源義経がジンギス・カンになったという説があるように、「ターザンは実は宮本武蔵だったんだよ!」とjamに言ったら、「バカじゃないの?」って言われましたけど(笑)。
──でも、吉川さんの中ではターザンと宮本武蔵は一本の線で結ばれているんですよね。
吉川:そうですよ。サムライ・スピリッツとなんとなく重なる気がするし、孤高の存在という意味でもそうだし。
──「ムサシ」の歌詞は、「ぶった斬りやしょ」「滅多斬りやしょ」といった日常的な話し言葉ともまた違うインパクトのある言葉が使われていて、面白いですよね。
吉川:「ぶった斬りやしょ」という言葉はちょっと英語のノリに近いんですよね。基本的に日本語は一語一語切れちゃうんですけど、促音便、濁音便を多用した江戸弁は英語に近い感覚があるんですよ。