ギター バックナンバー

PANICSMILE『E.F.Y.L.+1/72』発売記念特別座談会('07年2月号)

PANICSMILE『E.F.Y.L.+1/72』発売記念特別座談会 吉田 肇(PANICSMILE)×三栖一明(eyepop)×中尾憲太郎(SLOTH LOVE CHUNKS / SPIRAL CHORD)

3人の当事者が語る'90年代FUCKOKA狂騒時代

'98年8月に発表され、長らく廃盤の憂き目に遭っていたPANICSMILEのファースト・アルバム『E.F.Y.L.』がこのたび目出度く復刻された。しかも、'95年に発表された14曲入りのカセット音源『scale kit 1/72 100% PLASTIC』を追加収録し、丁寧なデジタル・リマスタリングが施された上にジャケットまで新装されたパニスマ・ファン必携のアイテムである。凄まじく殺傷能力の高いノイズと不安定ながら革新的なビートが今なお鮮度を失っていないこの不世出の名盤の再発を記念して、PANICSMILEの吉田 肇、SLOTH LOVE CHUNKS/SPIRAL CHORDの中尾憲太郎、NUMBER GIRLやZAZEN BOYSのアートワークで知られるデザイナーの三栖一明を迎え、'90年代当時のPANICSMILEとそれを取り巻く福岡シーンの状況を今改めて検証してみたい。(interview:椎名宗之)


イヴェントをやるためのレーベル発足

──まず、『E.F.Y.L.』を再リリースした経緯を吉田さんから訊かせて下さい。

吉田:最初に福岡で自主制作した時に、流通する手段というものを全く持っていなかったんですよ。体当たりでお店にアプローチして、委託販売をお願いする形ばかりで。福岡以外だけじゃなく他の地域でも売りたいと思って1,000枚プレスしたんですけど、そのダンボールの山を自分の部屋でずっと眺めながら辛い思いをしていました(苦笑)。

──ライヴの物販でも相当売れたんじゃないかと思いますけど。

吉田:そうですね。ツアーはかなり精力的にやっていたので、ツアーの合間に委託で扱ってもらえるレコード店を回ったりして、何とか1,000枚は捌けたんです。有り難いことに「音源を聴きたい」という声を今までも頂いていたんですけど、店頭在庫のみの状況が続いていて。そこで、今は『Headache Sounds』のレーベルA&Rとしての活動を本格化しているので、ちゃんとした形でCDを全国に流通してみようと思ったんです。

中尾:よーく探してみると、今もディスクユニオンとかで500円で売ってることもありますけどね(笑)。

──そんな憲太郎さんは、向井秀徳(ZAZEN BOYS)、豊嶋義之(ex.ロレッタセコハン)の両氏と共に「90年代当時の証言記録」として特別寄稿されていますね。情緒があって、僕は非常に好きなんですが。

中尾:はい、頑張りました。赤裸々な感じで(笑)。

──当時ビブレホールで働いていた吉田さんの紹介で憲太郎さんがビブレホールで働くことになり、吉田さんの家に居候までしていたのはよく知られた話ですね。

中尾:吉田さんの前にまず保田(憲一)さんと知り合ったんですよね、大学の時に。その頃まだ保田さんはPANICSMILEのメンバーじゃなくて、キューティーリップスパイっていうフレンチ・ポップのバンドをやっていて。その保田さんに連れて行かれたライヴがPANICSMILEだったんですよ。

──憲太郎さんは吉田さんの第一印象を覚えていますか?

中尾:最初にライヴを観に行った時は、確か挨拶くらいしかしなくて。ビブレホールのベンチで当時のドラマーだった大石(進)さんに「パンクが来た! パンクが来た!」って言い方をされて、2人でずっとBUZZCOCKSを唄って、ゲラゲラ笑ってた…そのイメージがありますね。

──それがいつ頃の話ですか?

中尾:僕、年代の割り出し方がよく判らないんですよ(笑)。

吉田:'93年頃ですかね。PANICSMILEの結成が'92年の11月で、ビブレホールに出るようになったのが'93年の春からくらいからなんですよ。

──三栖さんは、吉田さんや向井さん、安積一仁さんと『Headache Sounds』を立ち上げた一人として有名ですね。

三栖:僕は福岡の文脈と出会う前に、向井との仲がまずあって。先に向井がやっさん(保田)や??安積君、吉田さんと仲良くなって、それからですね。向井に連れられてやっさんや安積君の家に遊びに行ったり、PANICSMILEのライヴを観に行くようになったりする感じでしたね。

──'93年に立ち上がったレーベル『Headache Sounds』は、どんな形で始まったんですか?

吉田:最初の最初は、まずイヴェントをやろうってことになって、団体を作るんだったら何か名前を付けようぜ、って話になって。イヴェントをやるなら、その主宰名義がいいだろう、ってことで。

三栖:僕はその“イヴェントやろう”っていうスタートの時にはまだいなかったんです。向井から「『CHELSEA-Q』っていうイヴェントをやるから、お前フライヤーを作ってみてみぃ」って言われたのが関わりの最初だから。


閉塞感を打ち破った“博多NO WAVE”

──ちなみに、『Headache Sounds』という名前の由来はどこから?

三栖:フランク・ブラック(ex.PIXIES)の曲に「Headache」っていうのがあるから、そこから採ったのかなと僕は思ったんですけど。

中尾:うーん、その頃フランク・ブラックはまだソロを出してなかったんじゃないかな。

吉田:そうそう。ただ僕が覚えてるのは、『CHELSEA-Q』で向井君がフランク・ブラックの「Headache」をDJで思いきり掛けたことがあって、彼にはフェイヴァリットな1曲なんだなと思ったことはあったけど。安積君がEARACHEとか好きだったから、それをもじったのかもしれない。

──それは向井さんがまだNUMBER 5の頃ですか?

吉田:憲太郎が入る前のNUMBER GIRLかもしれないですね。リズム隊が全然違う、トリオ編成の時代があったんですよ。

──じゃあ、『Headache Sounds』は当初、『CHELSEA-Q』という自主企画を始めるためのものだったんですね。

吉田:それと、向井君が自分で作ったカセット・テープのラベルに付けるマークとして(笑)。

中尾:スタイルですよ、スタイル。スタイル・イズ・エヴリシング(笑)。

──向井さんのライナーによると、当時の福岡シーンはライヴハウスのブッキングで演奏するのが主流で、自主企画でライヴハウスを借りて『CHELSEA-Q』のようなオールナイト・イヴェントをやることは皆無に等しかったそうですね。

吉田:そうですね。僕は19歳くらいからビブレホールで働いてたんですけど、当時“イカ天”(『平成名物TV・三宅裕司のいかすバンド天国』)はまだやっていたものの、そのからくりが透けて見えて何となく白けるところが既にあって、つまりはバンド・ブームの終焉時期だったわけです。“イカ天”にも出演したことのあるたけのうちカルテットっていうプログレ・バンドとか、あとはモッズの亜流みたいなバンドばかりだったんですよ。ヴォーカルはリーゼントで、サウンドは8ビート一辺倒っていうような。僕はルースターズやARBといったいわゆる“めんたいロック”と呼ばれる音楽も純粋に大好きだったので、余計にこれでいいのかと思ったんですよね。福岡で新しいものはもう生まれないのだろうか? という閉塞感があったんです。

──当時隆盛を極めていた、グランジや??オルタナティヴに感化されたバンドが出てくる土壌がなかったわけですね。

吉田:ジャンル的な括りに関係なく、全く新しいことを志向していた人達はいたんですよ。蝉やFREEMAN、人間、グラインドサアフといったバンドですね。そういったバンドには、個人的に凄く感銘を受けました。それまでの、サンハウスから始まったロックの文脈ではないところのサウンドが福岡にもあるんだという認識が持てたので。それで、彼らのようなバンドを軸としたイヴェントをビブレホールでも打ち出していきたい、と思うようになったんです。

中尾:それが『博多NO WAVE』に繋がるわけですね。

吉田:そうそう。僕はPAもやっていたので、バンドの承諾を得てライヴ音源をまとめた『博多NO WAVE』というカセットも出したことがあるんですよ。

中尾:ビブレホールの他にDRUM Be-1っていうライヴハウスがあって、系列店のLOGOSはヴィジュアル系やヘヴィ・メタル系のバンドが動員力を誇っていて、Be-1で演奏できないニュー・ウェイヴ/パンク系のバンドがビブレホールに流れてきたんです。要するにその手のジャンルは余りにアンダーグラウンドなので、人が入らないんですよ。

吉田:目立った活動はないにせよ、スワンキーズを筆頭としてパンクの流れはずっと生きていたんです。その流れとは関係なく、クラブから派生したハードコア、スケーター・パンク系のバンドも活動してましたし。Be-1に出てたバンドも僕は結構好きで、ちゅうぶらんことかライカスパイダーといった濃いバンドは、セックス、ドラッグ&ロックンロールを地で行くような人達でしたね。

──話を伺っていると、吉田さんは当時の福岡シーンにおける新しい動きの首謀者的存在だったように思えますが。

中尾:うーん、そういう感じでもないんですよね。それまでの流れにない新しいバンドがライヴをできる場を提供していった、というのはありますけど。

三栖:強いリーダーシップを持って、声を張り上げて「こうやれ、ああやれ」って言ったわけじゃないしね。

吉田:僕が躍起にならなくても、憲太郎とか下の世代が自然と育ってきてましたからね。「動員が少ない」っていうだけでBe-1から締め出しを喰らった自分より年上のバンドにビブレホールでやってもらったり、目当てのバンドの演奏が終わったらお客さんが帰ってしまうようなイヴェントではない、粒の揃ったバンドのブッキングに腐心したりはしましたけどね。

──そうした吉田さんの果敢なブッキングによって、ビブレホールはオルタナティヴの匂いが色濃いライヴハウスとして認知されていった、と。

吉田:ビブレホールはデパートの中にあって、当時はテナント契約のシステム上、余り売上げを出しちゃいけないっていう変わったハコだったんです。だから集客のないバンドでもブッキングしやすい状況にあったというのがその一因としてあるんですよ。


高い殺傷能力だけを求めていた

──今回再発されたPANICSMILEのファーストは、憲太郎さんと三栖さんにはやはり衝撃の一枚でしたか?

中尾:僕はこれ、ファーストだと思ってませんから。その前にいっぱいカセット音源があったので。今回CDに追加された『SCALE KIT 1/72 100%PLASTI??C』の前にも、全く世に出ていない音源がいろいろあるんですよ。

三栖:『E.F.Y.L.』って'98年8月のリリースでしょう? 僕達にとっては“ファースト”じゃ全然ないんですよ。

中尾:僕にとっては“後期”なんですよね(笑)。

吉田:そうだろうね。'93年くらいからデモ・テープはかなり作ってましたからね。

三栖:自分にとってのPANICSMILEは、やっぱり「分解」に尽きますね。やっさんのあのギターのリフはへんちくりんで凄く恰好良かった。あの曲は僕にとって2回目のブレイク・ポイントやったみたい。ライヴで踊り狂ったもん(笑)。この『E.F.Y.L.』の中では断然「MECKI 16」が好きですね。

吉田:「MECKI 16」も、言ってみれば「分解」の延長線上にあるパワー・リフの曲だからね。

──憲太郎さんと三栖さんが最初に観たPANICSMILEのライヴって覚えていますか?

中尾:確かビブレホールの何かのイヴェント枠で、GILLCOVERのツアーだったような気がしますね。直球のグランジで、リアルでしたよ。PANICSMILEみたいなバンドはそれまで観たことがなかったから、とにかく衝撃的で。今聴いてみると無闇なノイズってわけでもないですけど、当時としては凄かった。

三栖:記憶に残ってるのは、ビブレホールで映画のイヴェントとくっついたライヴですね。そこでPANICSMILEがゴダイゴの「銀河鉄道999」のカヴァーをやって、“オォ!”と思いましたね。それが最初です。そう考えると、『E.F.Y.L.』はやっぱり僕にとってはPANICSMILEの後期なんですよ。鳥井さんと大石さんのいた第1期の後期。

中尾:そうだね。最初に観たライヴがいきなり『E.F.Y.L.』の時期だったら、多分受け容れなかったですね(笑)。

──吉田さん自身がこの『E.F.Y.L.+1/72』を改めて聴いて思うところは?

吉田:当時自分が求めていたのは高い殺傷能力だけだったんですよ(笑)。如何に耳を虐げられるかみたいなところで。現状に対する焦燥感だったり、未来が見えない中で音楽をやっていく自分に対する責任感だったりを突き詰めたら、あんなノイズになったんです。今回、マスタリング・スタジオで久し振りにオリジナルを聴いて、自分でも酷いなと思いましたよ(笑)。マイナス・パワーがこれでもかとばかりに噴出していて。だからエンジニアさんに「当時自分が思っていたよりもネガティヴな音になっているので、もっと明るい音にして下さい」とお願いしたんですよ。

──今回のリマスター盤は、オリジナルのジャケットを手掛けた三栖さんがデザインも“リマスタリング”して一新されていますね。

三栖:そうですね。当初は単なる焼き直しで行くかっていう話だったんですけど、吉田さんが「ジャケットのイメージを変えたい」っていうことで。これ、余りいい話じゃないかもしれないけど、オリジナルのデザインをした頃はよく判らなくなってた時期なんですよ。

──デザイナーとして、ですか?

三栖:いや、PANICSMILEに対してもそうだし…。

中尾:三栖君が板挟みに遭った頃っていうこと?(笑)

三栖:いや、そんなことない。僕は板挟みになったことはないし、あくまでいつも中立の立場だったから。『CHELSEA-Q』もその当時4年目で、イヴェントがスタートした時の新鮮さと面??白さの勢いがフラットになってきて、それぞれのバンドの活動形態も変わってきていたんです。僕はNUMBER GIRLのほうもいろいろと手伝ってたし、彼らが東京に行く準備をしていた頃で、それぞれがそれぞれの次の方向に向かっていった時期だったんですよね。『CHELSEA-Q』を今後どうしていくか、それぞれの思惑があったみたいで。昔みたいに“何も言わないけど共感している”っていう塊ではなくなっていたタイミングだったんです。そういう、僕自身も何を面白がっていいのかよく判らなくなっていた時期に、この『E.F.Y.L.』のジャケットを手掛けたんですよ。

──ちょっとほろ苦い時期だったわけですね。

三栖:そうですね。余りいい時期ではなかった。『CHELSEA-Q』のフライヤーを僕は月一でずっと作ってたんですけど、最後の1年は作らなくなってましたから。


表現の基本であるハンドメイドな感覚

──NUMBER GIRLのファンには、向井さんが目を閉じて煙草をくわえた写真をあしらった『CHELSEA-Q』vol.5のフライヤーがお馴染みですけど、三栖さんの手掛けるフライヤーはいつまでも手許に残しておきたい秀逸なデザインばかりですよね。

吉田:うん、本当に素晴らしいと思いますよ。

三栖:『CHELSEA-Q』の1回目から手掛けてますからね、バカボンのママを使ったやつ。

吉田:いや、1回目のは一明君のデザインが間に合わなくて、僕が手書きしたやつだったんだよ。

三栖:あれ、そうなんだ? てっきり間に合ったのかと思ってた。向井はそんなこと言ってなかったよ(笑)。

中尾:僕が見た最初の『CHELSEA-Q』のチラシは、“Q”ってでっかくトリミングされてるやつだったよ。

三栖:あ、そうなの? 僕、確か『CHELSEA-Q』の1回目には行けなかったんですよ。2回目から「お前がやってくれ」って向井から直接トスが来て、そこからレギュラーになったということか。

──いろいろと意見が食い違ってますが(笑)。でも、当時はデザインも完全に手作業ですよね?

中尾:カラーコピーを使ったりしてたよね。切り張りでフライヤーの原紙を作って、コンビニのコピー機で黒インクのコピーをした後にそれを給紙に再度入れて、更に赤インクのコピーをして重ね刷りしたり。

三栖:僕はデザインの学校に行ってたから、レタリングの本をコピーしてアルファベット順に切り抜いて、糊で貼り付けて、バンド名とかタイトルを作ってたんですよ。

中尾:基本ですよ、そういうのはやっぱり。

──マックには絶対出せない、何とも言えぬ温かみがやっぱりありますよね。

三栖:あると思いますね、間違いなく。後年はマックを導入しましたけどね。『CHELSEA-Q』も、PANICSMILEも、NUMBER GIRLも、外に向かうエネルギーがどれも凄く強かったんですよ。ただ自分達だけで好きなことだけをやるような内輪ノリは一切なかった。彼らの凄く前向きで外に向かう部分に僕は凄く共感していたし、自分がヴィジュアルを作る立場で参加する上で、デザインで如何に外に向かって伝えるかっていうのを常に意識してましたね。適当に殴り書きしただけのフライヤーはパンキッシュで??、視覚的に恰好いいのかもしれないけど、それじゃ外に向けて伝わるものも伝わらないと僕は思う。そういうところで、外に向かう作業を手伝えたことが当時の僕には凄く重要だったと思いますね。

──前から伺いたかったんですけど、三栖さんにはバンドをやろうという発想はなかったんですか?

三栖:なかったですね。ギターを練習しようとかしたけど、家にあるアコースティック・ギターは遊びに来た向井が気持ち良い顔をして弾いてただけです(笑)。僕がそこで向井よりも弾けたら、向井は多分気持ち良くなかったはずです(笑)。 吉田・

中尾:はははははははははは。

三栖:僕はフライヤーを作る時に、“あ、このイヴェントに行ってみよう”と思わせたい一心で作ってましたよ。ライヴハウスやレコード屋にそのフライヤーが置いてあるとしたら、それを必ず持って帰らせたい。とにかくそういう意識でしたね。

──そういう意識は、今日に至るまで三栖さんの手掛けるフライヤーに一貫していると思うし、憲太郎さんが手掛けるSLOTH LOVE CHUNKSのフライヤーにも同じことが言えますよね。

中尾:そうですね。ハンドメイドな感覚っていうのは、何事においても基本でしょう?


福岡出身バンド独特の匂い

──『CHELSEA-Q』の1回目は、イヴェントとしては成功だったんですか?

中尾:天神のハートビートっていう200人入るところでやって、もうパンパンでしたからね。

吉田:300人キャパのビブレホールにお客さんが10人くらいっていうイヴェントを僕はずっと見てきたから、1回目は状況として凄く広がったなと思いましたね。出演したのもヴェルヴェッツチルドレン的な割と淡々とした音楽をやっていたバンドばかりだったから、“こういうイヴェントでもちゃんと成立するんだ!”ってショックだったのを覚えていますね。自分達で企画しておきながら何ですけど(笑)。

──『CHELSEA-Q』は、椎名林檎さんも常連のお客さんだったそうですね。

中尾:だいぶ後期でしたけどね。ハートビートでやるのをやめて、ビーベンとかでやってた頃かな。デラシネのメンバーとかも観に来てましたね。

──豊嶋さんがライナーに書いていましたけど、『CHELSEA-Q』の中心スタッフに誰も福岡出身の人間がいなかったというのが面白いですよね。

吉田:そうですね、生粋の福岡市内の人間は誰一人としていなかったですね(笑)。向井君と一明君は佐賀県、憲太郎は北九州市だったし。僕は実家が福岡市内ではあるんですけど、高校時代は広島にいたんですよ。広島から福岡市の大学を受験したんです。だから、純然たる福岡市民は誰もいなかったんですよね。

──当時のロレッタセコハンはどういった存在だったんですか?

中尾:ひとつのライヴハウスを基軸に独自の企画を展開していくというよりは、イヴェント用のバンドみたいなところがありましたね。

吉田:メンバーも公言しているのでこの場で話しても差し支えないと思いますけど、前進して突破していこうみたいな意識が元々ないバンドだったんです。東京に出てメジャー契約して成功しようとか、そういう上昇志向は端からなくて、常に自分達のやりたいことをやり続けようとしていた傍観者的な立場だったんで??すよ。ロレッタセコハンとの出会いは『E.F.Y.L.+1/72』のライナーに豊嶋君も書いていますけど、このCDにも入っている「メリーゴーランド」という曲がFM福岡で掛かった時に、たまたまロレッタセコハンのメンバー3人がそれを車の中で聴いたらしいんです。てっきり東京のバンドかと思ったら福岡のバンドだと知って、わざわざ僕達のライヴ・スケジュールを調べて観に来てくれたんですよね。で、「自分達もバンドをやってるんですけど、やる場所がなくて…」みたいな話をしてくれたのが最初でした。そこから彼らには『CHELSEA-Q』の中期から後期にかけて関わってもらったんですよ。

──憲太郎さんがNUMBER GIRLと掛け持ちしていたstink bombも『CHELSEA-Q』の常連だったんですか?

中尾:いや、出たことはないですね。

吉田:でも、『CHELSEA-Q』に出たからあのコンピ(『Headache Sounds SAMPLER CD volume two』)にも入ってるんじゃない? 1回くらいは出てるはずだよ。

──そう、'90年代後半の福岡シーンを語る上で『Headache Sounds SAMPLER CD』は当時の熱気を伝える重要な音源ですね。

吉田:『〜volume one』のほうは、NUMBER GIRLだけ向井君が録音していて、あとは全部僕が録音しているんですよ。『CHELSEA-Q』にレギュラー出演していた精鋭バンドの音源を集めたコンピレーションなんですけど、今思うと福岡っぽい匂いがどのバンドにも通底している気がしますね。あの頃は当事者として渦中にいたからそんなことは気にも留めませんでしたけど、上京して高円寺の20000Vや秋葉原のGOODMANで働いていた時に観た福岡出身のバンドにはやはりどことなく“らしさ”を感じましたよね。武骨さが際立っていて、熱い。もう暑苦しいくらいに(笑)。どこか過剰なところがあって、とにかく濃いんですよ。

中尾:それが福岡っぽさと言われても、当時は他の地域と比較して客観視できる情報もなかったですからね。未だに客観視はできないですけど(笑)。『〜SAMPLER CD』に収録されたバンドも、仲のいいバンドももちろんいましたけど、全部が全部仲が良かったかと言えばそんなこともなくて。今みたいにCD-Rで簡単に音源を作れなかったから、束になってみんなでオムニバスを作ったっていう側面があったと思いますよ。


盟友・向井秀徳との確執

──『CHELSEA-Q』に携わった顔触れの中で、東京へ出て勝負をしたいという意識が最も強かったのは…。

吉田:やっぱり、向井君でしょうね。

中尾:でもそれは、イヴェントができるようになって、NUMBER GIRLをちゃんと続けることができるようになってからじゃないですかね。

吉田:東京のレコード会社から「ソロで契約しないか?」っていう話を貰ったけど、自分はあくまでもロック・バンドをやりたいから態度を保留にした、なんて話を当時聞きましたけどね。

三栖:どこのメーカーの人かは知らないけど、連絡を取り合って助言を貰ってたみたいですね。その話は途中で立ち消えになったらしいですけど。向井は東京云々の前に、カセットではなくアルバムをちゃんとCDでリリースしたいっていう意識のほうが強かったんじゃないかと僕は思いますけどね。インディーズで『SCHOOL GIRL BYE BYE』を出してから、すぐに東芝EMIの??人が目を付けてくれたから割と早かったけど。

──吉田さんもNUMBER GIRLと時を同じくして'98年9月には上京して、活動拠点を東京に移すわけですが。

吉田:『E.F.Y.L.』のオリジナルのデザインがうまく行かなかったというさっきの一明君の話に繋がるんですけど、赤裸々な話をしますと…これ、ホントは話すのやめようと思ってたんですけどね。

中尾:もういいんじゃないの?(笑)

吉田:最初は“イヴェントを盛り上げよう、先代のめんたいロックに恥じない動きを活発化させて勢い良く突破していこう”と一丸となっていたんですけど、後期になるに従って「自分達はメジャーと契約してデビューしたい」とか「ウチはバンドをやめる」とか、バンドの置かれた状況や『CHELSEA-Q』に対する意識が食い違ってきたんです。PANICSMILEはずっとマニアックなことをやってきたので、メジャーとの契約はできないだろうし、長くバンドを続けていくためにもインディペンデントなレーベルの仕組みやディストリビューションの流れを自分達でも勉強していかなくちゃいけないと考えた時期だったんですね。それと、同じ時期に向井君と僕の間に確執があったんですよ。

──それは『CHELSEA-Q』に対しての見解の違いですか?

吉田:と言うよりも、バンド観の違いですかね。NUMBER GIRLがEMIとうまい感じに行き始めて、ある時酔っ払った向井君が僕にこう言ったんですよ。「吉田君、俺はもういち抜けますわ。地方で盛り上がるだけの場所に自分はいつまでもいたくないです」と。僕は「ずっと一緒にやってきた同志だろ? 何を言ってるんだよ!?」と説得したんですけど、「俺は次を見てますから」と言われて。これには僕も愕然として、それ以来、向井君とは一切口を聞かなくなっちゃったんです。その後も向井君はビブレホールにフラフラやって来ては酔っ払ってワーッと盛り上がっていたんですけど(笑)、いい奴だなとは思いつつも、妙な意地の張り合いで突っぱねちゃったんですね。

──東京進出を決めた向井さんに対する嫉妬心もありましたか?

吉田:ええ。正直に申し上げると、やっかみがあったんですよ。当時僕は28歳になっていて、30代を目前にして“自分で選んだ道をちゃんとやらないかん!”という焦りもあったし、もの凄く混沌としていたんですよね。そんな状況だったから、一明君も「このデザイン、どうしていいか判らんよ」っていうことだったんだと思います。『E.F.Y.L.』を作っている時は『SCHOOL GIRL BYE BYE』のデザインも同時進行でやっていて、“『SCHOOL GIRL〜』のほうはあれだけデザインに力を入れているのに、こっちは何だよ!?”っていう気持ちが正直あったんですよ(苦笑)。でも、一明君は限られた時間の中で精一杯やってくれたわけだから、そういう考え方はいけないなと思って。

──その後、向井さんとの仲は改善されたんですか?

吉田:向井君は何度も何度も歩み寄ってくれたんですよ。「俺達も東京で動員が増えてきたんで、一緒にイヴェント出て東京で頑張りましょうよ」と言ってくれたんですけど、「君の話は聞きたくない」と突き放してしまって。

中尾:だから、その当時は三栖君も僕も本気で板挟みだったんですよ(笑)。

吉田:(苦笑)その後上京して落ち着いた頃に自分が大人げなかったのを認めて、向井君に「ごめんなさい」と頭を下げましたけどね。僕のほうが向井君よりも年上なのに、本当に大人げなかったと思いますよ。


常にギリギリのところで喘いでやっている感じ

──こうしてあの当時の福岡シーンを振り返ってみて思うところは?

中尾:シーンと言われても、当事者として渦中にいたから対象化するのは難しいですよね。シアトルやサンディエゴ、ワシントンD.C.のシーンには憧れましたけど、そういうのが当時の福岡にあったのかと思うと、どうなのかな? って。単純に懐かしいとは思いますけど。10代の終わりに福岡に出てきて、20代の前半までの感受性豊かな時期で、いろんなものを吸収できたのは良かったですね。70'sパンク一辺倒だったのを、保田さんの影響ですっかりグランジ色に染められて(笑)。

吉田:女の子からキャーキャー言われないとロックじゃないのか? という疑問が当時主流と呼ばれていたロックに対してずっとあって、地味でも自分達にしか出せない音楽をやっているバンドが自由に演奏できる場所を作れたら楽しいのになぁといつも考えていましたし、それが『CHELSEA-Q』へと発展していって…。状況がないから自分達で作るしかなかったんですよ。それが今思えばシーンと言えばシーンだったのかな、と。『CHELSEA-Q』に影響を受けて、今福岡で独自のシリーズ・イヴェントを行なっている人達がいると聞くと素直に嬉しいですし、何かのきっかけは作れたのかなと思いますね。

三栖:PANICSMILEに関して言うと、精神的にも肉体的にもギリギリのところで喘いでやってる感じが良かったですね。今振り返ってもそういうバンドだったなと思える。その常にギリのところでやってるからこそ、ちょくちょく摩擦が起きたりもしたんだろうし。それは人間関係だけじゃなくて、音作りにおいてもそうだったと思うんですよ。今は吉田さん達も歳を取ったけど(笑)、今の年齢なりのギリのところでPANICSMILEは続いているし、ずっとそのままでいて欲しい。自分も怠けてないで、常にギリのところでデザインに打ち込みたいと今も思っています。当時からそう思ってたしね。PANICSMILEやNUMBER GIRLのライヴを観て、凄まじいキワキワ感を全身に突き付けられて、“ああ、もう俺はダメやぁ…”ってよく思ってましたからね。

中尾:“ダメや”じゃダメじゃん(笑)。

──聞くところによると、目下制作中のPANICSMILEの新作は随分と趣が異なるそうですけど…。

吉田:そうですね。かなり歌モノのテイストが強い、アダルトな感じになると思いますよ(笑)。

──『E.F.Y.L.』をPANICSMILEの後期と呼ぶ憲太郎さんからすると、今のPANICSMILEは一体何期になるんでしょうね?(笑)

吉田:東京に出てきてからのPANICSMILEは、憲太郎にとっては別物でしょ?

中尾:そうですね。メンバーも違いますからね。

吉田:東京に来てから対バンもしたし、ライヴも観に来てもらったりもしましたけど、憲太郎が「いい」って言ったことは一度もないですからね(笑)。

──では逆に、吉田さんから見たSLOTH LOVE CHUNKSは?

中尾:勘弁して下さいよ(笑)。

吉田:僕は好きですね。特に憲太郎がリード・ヴォーカルを取ってる曲がいいですよ。憲太郎の声は、僕の中ではシド・バレットに近いですから。「自分がリーダーをやるバンドなんだから唄いなよ」って、stink bombをやってた時もずっと言ってたんですよ。だから憲太郎にはもっと唄って欲しいですね。どんどん唄って、とにかくバンドを続けて欲しいです。福岡にいた頃は、こんな未来が来るとは思ってもみなかったですからね。みんな三々五々に散らばってもう二度と会わなくなるのかなと思っていたのに、東京に出てきても??みんなそれぞれ好きなことをやって、苦境に臆することなく音楽を楽しんでやっている。その図太さ、強さは信頼できると思うんですよ。だから憲太郎や一明君を始め、同郷の仲間達に対しては「これからも末永くよろしく」と言いたいですね。


E.F.Y.L.+1/72

PANICSMILE
E.F.Y.L.+1/72

RHYTHM TRACKS/PERFECT MUSIC TRACK-004
2,200yen (tax in)
IN STORES NOW
★iTunes Storeで購入する(PC ONLY) icon

Live info.

◇PANICSMILE 2月18日(日)代々木Zher the ZOO
2月27日(火)渋谷O-NEST
3月9日(土)高円寺UFO CLUB
3月18日(日)渋谷屋根裏
3月24日(土)秋葉原CLUB GOODMAN

PANICSMILE OFFICIAL WEB SITE
http://panicsmile.hp.infoseek.co.jp/

posted by Rooftop at 19:00 | TrackBack(0) | バックナンバー

この記事へのトラックバック