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山部“YAMAZEN”善次郎"×スマイリー原島('07年1月号)

山部“YAMAZEN”善次郎

音楽都市・博多の伝説的ミュージシャンが語る博多ロック・シーンの系譜

福岡市博多区千代町に生を受け、田舎者、スマイル、ザ・ドリルなど数々の伝説的なロック・バンドを結成、博多ロック・シーンの系譜において常に世代の縦軸と横軸を結ぶジョイントの役割を担ってきた“山善”こと山部善次郎。今なお博多の街を愛し、愛される彼のソウルフルな歌声には、サンハウスの時代から脈々と受け継がれてきた純度の高いロックンロール・スピリッツが宿されている。2年振りに発表されたオリジナル・アルバム『GIFT』にスーパーヴァイザーとして携わっている元アクシデンツのスマイリー原島を迎えて山善のロックな半生を振り返ると共に、そこから垣間見られる博多音楽シーンの変遷を辿ってみたい。(interview:椎名宗之)


山善、衝撃の蛮勇列伝!

──山善さんと言えば、サンハウスから今日まで脈々と続く博多の音楽シーンを語る上で欠かせない最重要人物の一人なのですが、若いリスナーには今ひとつその凄さが掴みきれていないと思うので、改めて原島さんから山善さんの人となりをご紹介頂きたいのですが。

原島:じゃあ早速山善のプロファイリングから入ると、生まれたのは?

山善:1954年、福岡市博多区千代町出身。映画監督の石井聰亙と同郷です。で、聞いたらね、監督の家はウチのほんの200メートルくらい後ろやったね。

原島:石井監督は1957年生まれだから、山善の3つ下。

山善:あの人は千代小、千代中…って誰も判らんか(笑)。その後に福岡高校に進学して、高校を卒業してすぐに東京に出て映画監督になったやないですか? 俺はその頃もうバンドしよって、千代のモンとは付き合いがなかったわけよ。俺は警固中学だからさ、モッズの森山(達也)達と一緒の。福岡じゃ一番ハイカラな学校やった。

原島:森やんもそうだし、先輩にはフリーの山内テツも居たこれまた凄い中学でね。よく判らんちゃけどさ。

山善:チューリップの姫野(達也)さんもおる。俳優の米倉斉加年とかもそう。

──石井監督によると、『爆裂都市/バースト・シティ』の破怒流地区は千代町がモデルだったという話ですね。

原島:それは言いよったね。だから山善が「なんで俺ば『狂い咲きサンダーロード』に出さんやったと!? あれは俺達じゃなかったと? モッズじゃなかろう!」って監督に詰め寄ったら、「そうですね、当時知っとけばそっちもあり得たですね」って(笑)。

──千代町というのはどんな土地柄なんでしょうか? やはり“バースト・シティ”なんですか?(笑)

山善:そうですね。ニューヨークで言えばブロンクスとかやろね。

原島:ジャマイカで言えばキングストン。まぁ、東京で言えば王子みたいな感じかな(笑)。凄く人情深い町ではあるけどね。

山善:山笠ってあるでしょ? その中でも千代町の流(ながれ)が一番多いの。生で見たらビックリするですよ。

原島:石井聰亙と山善の共通点は山笠とロックだよね。石井さんの原点にあるのは山笠、F1、ロックで、その中で2つは山善と一緒やけんね。

──山善さんがバンドを始めた頃は、ロックが真の意味でカウンター・カルチャーとしてなり得ていた時期ですよね。

山善:中学3年の時にバンドを組んだら、エレキ・ギターを持つこと=不良になるってPTAから潰されたから。

──音楽を始めるきっかけとなったバンドは?

山善:テレビで見たモンキーズとかがリアルタイムだね。俺は世代的に言うと、サンハウスのずっと下だから。ビートルズは小学校6年生の時に『ヤァ!ヤァ!ヤァ!』の封切りをテレビのニュースで見て、女の子がキャーキャー言いよって好かんやったくらいで。どっちかと言うとスパイダースやテンプターズ、ゴールデン・カップスとかのGS(グループ・サウンズ)はいいなと思いよったけど。

──当時のGS全盛期には、柴山俊之さんがすでにキースとして『ヤング720』に出演されていましたよね。

原島:柴山さん達は山善とは7、8つ年齢が上やけん、そこはでっかいけどね。俺も柴山さんと口がきけるようになるまで15年くらいかかったけんね。博多のシーンで言えば神に近い存在やったから。

山善:怖かったもん、サンハウスは。でも、俺達がなぜサンハウスと仲良くなれたかっていうのは、ウチのバンド(田舎者)のメンバーに坂東(嘉秀)っていうギターがいて、そいつは6人兄弟の一番下だけど、その一番上の兄ちゃんが博多のバンドの総元締めやったわけよ。バイキングっていう九州一巧いベースキャンプのバンドのマネージャーやって、「柴山」「鮎川」って呼び捨てやったもんね。もう亡くなったけど。そこから柴山さんと仲良くなって、そこでマディ・ウォーターズやハウリン・ウルフを柴山さんから教わって。もうませとったね、俺達。

──柴山さんは音楽学校の校長みたいな立場だったんですね。

原島:そうそうそう。それを継承してるのが山善達やけん、俺達に伝わる頃にはもういろんな曲とかアーティストにまつわるストーリーが完全に出来てるわけよ。「レイ・チャールズはホントは眼が見えて、バイクにも乗れる」とか(笑)、それがどこまでホントかウソか判らんけど、そこでまた夢が広がるわけよ。

──ちなみに、ルースターズのメンバーとはどんな関わり合いがあったんですか?

山善:彼らは北九州やろ。東京から見ると博多も北九州も全部一緒だけど。

原島:北九州の音楽性と博多のそれとはバッチリ分かれとって、そげん全く違うったいって言いながらも、俺もルースターズを初めて観てパッと思い浮かべたのは(鮎川)誠さんと山善やったけんね。ある時、ルースターズのライヴを観て感銘を受けた山善が「俺がマネージメントするけん!」って、次の日から名刺にはルースターズとロッカーズとモッズのマネージャーって書いてあったけんね(笑)。

山善:あいつらが北九州から出てきて、その時はまだ人間クラブ(ルースターズの前身バンド)やったけど、ライヴを観て恰好いいねぇと思って。サンハウス直系で来とうね、って。俺達よりももっと純粋にガーン!と行っとうけん。当時やってたザ・ドリルっていう自分のパンク・バンドは解散しとって、俺が自称マネージャーをやることになった。

原島:そう、山善は実際に福岡のソニーの初代SD(サウンド・ディベロプメント、新人開発セクション)やってんね。まぁ、それを山善にやらせるほうもやらせるほうなんやけどね。

山善:1ヶ月でクビになったよ(笑)。中洲のすぐ近くにある東急ホテルに1ヶ月泊まったっちゃからね。当時の1ヶ月分の給料=7万円を注ぎ込んで泊まろうと思ってさ、ロック・スターの如く(笑)。その部屋にギターや何やら全部家から持ち込んで、食事とかはみんなサイン。チェック・アウトの時に精算したら10万円くらいになってしまって、払いきれなくなって(笑)。深山という男ば呼んで、「金作ってきやい!」って。

原島:深山っていうのは俺と同い年のいとこなんやけどね(笑)。この手の話は幾らでもあったったいね。福岡銀行で「金貸せッ! 融資せぇッ!」ってでっかい灰皿をボコボコ投げよったり(笑)。

──銀行強盗スレスレですね(笑)。

原島:未遂で終わったけどね。銀行強盗って言うより、銀行恐喝やけんね(笑)。

山善:そん時は映画の『ブルース・ブラザーズ』みたいに、パトカーが10台くらい来て銀行を取り囲んだっちゃね。

原島:ドリルのドラマーだった角野(一人)さんが、その日銀行の近くを通りよったらしいのね。ピーポーピーポー言うて、なんか山部のごたる男が大暴れしとるねぇと思ったら実際に山善やったっていう(笑)。


アクシデンツを聴いて音楽への思いが再燃

──同郷の仲間が次々とデビューを果たす中で、山善さんは'83年にシングル『キャデラック』をリリースするまで長い沈黙期間がありましたね。

山善:そう。あれはね、一度音楽に挫折して、冬眠期間やったけん。24歳の時に松山でウチの親父が紙問屋しよったけん、1年間行っとうたですよ。その頃に陣内(孝則)がロッカーズでデビューして、「山善さん、『キャデラック』ば録音して良かですか?」って連絡があって。森山もモッズとしてデビューするって火山の絵葉書をくれたけど、俺はどうも思わんかった。音楽に対して完全に諦めとったわけ。ところが博多に戻ったある日、FMラジオばつけたら原島が唄いよる。「エーッ!? 何やてぇ! 原島が唄いよるなんて! もっかい音楽するぜ俺!」ってすぐに思ったけんね(笑)。

──じゃあ、原島さんのアクシデンツがいなければ、山善さんが復活することもなかったわけですね。

原島:それ、ホントの話なの?

山善:ホントよ。「イカしとうねぇ、原島!」って思うとった。あの時「雨のメインストリート」を聴いてなかったら、今に至るまで唄ってないけんね。俺は原島の若い時しか知らんけんさ、それ以降はウチのドラムやらベースが面倒見よったけんね。アクシデンツがジュークレコードからインディーズで出してたから、その流れでジャンピング・ジャム('80〜'86年まで2年おきに福岡で開催された音楽イヴェント)に殴り込みした、と。

原島:それがオムニバスの『JUMPING JAM 〜rebel street III〜』に収められた「Hey Hey Stop」になるわけ。俺なんて丁稚奉公から入っとうけん。アクシデンツの他のメンバー……後藤(昌彦/g)と樋口(博/g)は元々ロッカーズだったりモッズだったり、秀ちゃん(宮本秀二/ds)もモッズだったりロッカーズだったり、克さん(井上克之/b)は言うまでもなく元ドリルのメンバーで、俺以外はみんな福岡ではそれ相応の技術も知名度もある人間ばかりだったんだから。

山善:その井上克之が言うよったけど、松本(康)さんがジュークレコードをオープンした時にアクシデンツが挨拶しに行って、その時に原島が松本さんに「今からロックは年功逆列で行きます」って言うよって(笑)。凄いよねぇ、パンクよねぇ、原島はやっぱり(笑)。

原島:いやいや、怖いモン知らずやったっちゃねぇ、俺もね(笑)。俺も克さんという人がおらんやったら今この場におらんっていうのがあって。ロッカーズがラスト・ライヴか何かで80's factoryに帰ってきた時に、打ち上げでワーッてなりよったわけ。そん時に俺がスネークマン・ショーの真似したり、笑わせて場を盛り上げよった。それを見た克さんが「お前、なんか山部のごたるねぇ。お前、歌唄うてみらんや」って言われたんやった。それで「これ唄ってんみやい」って20曲入りのカセットを渡されて。その克さんっていう人も凄いっちゃんね。山善がストーンズなら克さんはビートルズ。ビートルズの曲は全部ソラで唄えるっちゃけん。そこからもう、教えられる教えられる(笑)。あと、山善とバンドやってた角野さんって人は一時期アパートの横に一緒に住んどっちゃったけど、毎日ソウルやけん。黒人になるっちゅうよ! 「ホントに勘弁してやってん」って言ったもん(笑)。

山善:博多にはそういう伝統があるわけよ。ロックの魂ば下の世代に伝えるべく、先輩が後輩を叩き上げて一人前にしていく。俺も柴山さんや鮎川さんからも叩き上げられたったい。

──まさに音楽の闘魂伝承ですね。酒の呑み方からケンカのやり方まで含めて(笑)。

山善:そうそう。まずケンカの売り方から始まってね(笑)。

──ルースターズの大江慎也さんも鮎川さんにギターの手ほどきを受けたと語ってましたよね。

原島:花田(裕之)もそうだしね。そういう上からの淀みない流れが脈々とあるんやね。

山善:なぜルースターズがって言うたら、鮎川さんが結婚して北九州の若松に住んだでしょ? ああいうことも大きいよね。

原島:そうそう。鬼平(坂田紳一)さんも当時北九州で喫茶店をやっとって、そこに「サンハウスの人がおるけん」ってみんなで会いに行ったりしよったり。

山善:アップビートの広石(武彦)とかもそうやった。もう全部繋がるとて。

原島:広石くらいまでが博多のロック伝承の最後の世代やったね。

山善:175Rとかは全然違うけん。

原島:そりゃあもうエラい違いすぎるけん(笑)。175Rとアンタ、どんだけ離れてんの!? っちゅう話(笑)。


新宿ロフトでのイヴェント“LIVE 092”

──'84年に九州で活動している新進バンドを紹介する企画“LIVE 092”を新宿ロフトで立ち上げて山善さんを呼んだのは、当時の店のスタッフだったんですか?

原島:いや、もちろん柏木省三(当時、ルースターズのプロデューサー兼マネージャーを務めていた)ですよ。まぁ、確かに柏木さんに関してはいろんな話があるとよ。ただ、プロデューサーとしての音楽的視点と実験的な要素を採り入れる感覚は稀有な存在だったと俺は思う。

山善:誰も怖くて近づけんやった山善のファースト・アルバム『DANGER』をプロデュースしたのも柏木さんやったしね。

原島:そうそう。『JUMPING JAM 〜rebel street III〜』に入ってる「Hey Hey Stop」を無理くりねじ込んだのも柏木さんやった。あれが世にちゃんとした形で初めて出た山善の音源なんやけど、他は全部ライヴ音源で、山善だけスタジオ・レコーディングやもん。ある意味、プレミア・ボーナストラックみたいに入っとるけんね。みんなライヴなのに、あからさまに音が違うっちゃもん(笑)。

──そんなエピソードからも、山善さんの特異な存在感が窺えますね。

原島:山善は、サンハウスからモッズ、ルースターズ、ロッカーズ、アクシデンツ…俺達を含めておるとしたら、3世代を繋ぐジョイントの役目を果たしてくれたし、常にそこは意識させられとったって言うかね。

山善:原島達が東京へ出て行った後にイカ天ブームとか来るでしょう? そん時も俺は博多でさらに下の世代の連中とのジョイント役を一人で踏ん張ってやってたんよ。

原島:そんな山善だからこそ、アンジーの水戸(華之介)も山善から「このバンド凄かねぇ!」って認められた時は嬉しかったって言っとったよ。俺も一番最初にアンジーを観に行ったのは、さっき話した克さんの誘いがきっかけやったからね。「原島、面白いバンドがいるけん観に行こうや」って言われて連れて行かれたんだから。だからホント、山善っていろんな面でのジョイント役なんよ。柴山さん達は俺達の世代にとって神だから存在が余りにも遠すぎるし、森やんや陣内さん、ルースターズの面々もそうやったけど当時は自分達のやることが第一に入っとるけん、人に伝えるどころやなかった。そこを山善がいいパイプ役になって、博多の音楽シーンの灯を消さずに守り続けてくれた。

山善:柴山さんもシナロケも東京に行って、モッズやロッカーズ、ルースターズまでが後に続いた。そうなると博多にムーヴメントはなかったもん。完全な空洞化やね。そこを踏ん張って盛り立てたのが原島達のアクシデンツやった。

──新宿ロフトで行なわれた“LIVE 092”は、どんな感じだったんですか?

原島:そりゃもうインパクトは凄かったよ。噂を聞きつけた連中がみんな観に来たけんね。

山善:バンドマンばっかしね(笑)。まこちゃん(鮎川誠)も来とったし、大江もおるしね。もうみんないた。

原島:今でも語り草になっとるけど、あの“LIVE 092”に出演した博多の人達のエネルギーはとにかく凄まじかったね。あの時期のロフトは九州のバンドにとっちゃホームみたいな感じやったけんね。

山善:一番最初のロフトは柏木さんが組んだ2デイズで、宿はスターホテルを取ってもろうて。後でシーナからイヤミを言われたですよ。「山善、お前ね、最初からホテルなんか泊まって! 私達なんか深夜喫茶で朝まで過ごしたことあるのよ!」って(笑)。打ち上げの席で、酔っとったルースターズの下山(淳)に絡まれたこともあったねぇ(笑)。「俺は山形だからライヴがしたくてもライヴハウスがないんだよ! 山善達は博多という街に甘えてるんだよ!」って(笑)。甘えとったちゃあ、生まれとうけんしょうがなかとね。まぁ、そう言われただけでどうもなかったけど。ああいうまっすぐな気持ちが下山の芯にはあるっちゃね。その芯の太さが最後までルースターズを支えた原動力としてあったんやろね。エラいと思うよ。俺は好きやね、下山のこと。


ロック・スピリッツが凝縮された最新作『GIFT』

原島:山善は自分じゃ言わんから俺が言うけど、ウエストロード・ブルーズ・バンドが福岡に来てライヴをやった時に、サンハウスと田舎者がフロント・アクトをやったことがあったんだよ。そうしたら山善のステージがドッカンドッカン受け過ぎて、ウエストロードのメンバーが「もうやってられへんわ、帰るわ!」って言いよったらしいよ。まぁ、言うなればリヴァプールへ試合に行ったもんやろね。そこで山善は塩次伸二さんに認められて、京都の拾得に呼ばれて唄ったり、あの『ミュージック・マガジン』で音楽評論家の小倉エージさんが「東のはちみつぱいに西の田舎者」って喝采を送ったりしてね。

──山善さんは、これまで本格的に東京進出を考えたことはないんですか?

山善:30歳の時に最後の勝負を賭けようと思うて、柴山さんに電話して「俺も出てこうと思いよっとるですけど」って言うたら一言、「やめとけやい」って(笑)。「お前ば死ぬ気でサポートするようなマネージャーがおらん限り、この東京じゃお前が“千代町の山部じゃ”言いよっても誰も知らんぜ。大人しくしとけ」って。

原島:ちょうどそん頃よね、エピックとかに殴り込みをかけたのは(笑)。モッズが所属していたこともあって、小さな糸口から「これ行けるばい!」ってエピックの玄関でずっと歌を唄って関心を引こうとしたという(笑)。

山善:エピック前にも行っとったし、ソニーの本社前にも朝の7時半からずっと玄関前で唄って。社員の人が見かねて「どうしたいの?」と訊きよるから「契約してくれ」と。で、「音は?」って言われたから「音はない!」って(笑)。

──今の山善さんにとっては、博多に根を下ろしてコンスタントに音楽活動を続けることが重要なポイントなんですよね?

山善:俺は絶対にそう。東京はやっぱり合わんもん。たまに出てくるぶんにはいいけど。地元で活動することに何ら不自由さを感じておらんしね。今度2年振りに出したアルバム『GIFT』に入ってる「田舎へ帰ろう」っていう曲は、東京に住んどる俺達の友達に対してのメッセージなんね。「気が付きゃこの街に住んで18年/X'masが終わって思うのさ/そろそろ答えを出してもいい頃だと」っていう歌詞で。

原島:それ、俺の歌やないか? 計算しよったら、東京に住んで今ちょうど18年だし(笑)。でもホントさ、今回この『GIFT』にスーパーヴァイザーとして携わってアルバムを世に広めたいと思ったのは、博多の音っていう伝承の部分で言うと、ここまでストレートなロックも今の時代そうはないと思ったからなんだよね。これこそが純度の高い博多の音なんやな、って感じて。今でも博多で音楽を続けている人達の思いや気持ちもここには詰まってると思うしね。正直、俺はビックリしたんよ。自分達が大事にしてるものをどれだけ形にできるかってところで、それがちゃんと詰まっとったからね。YAMAZENというファクターを通して自分達を表現しようっていうのが、今回はホントによくできとって。噛み砕いた言葉で言うとロック・スピリッツみたいなものがもの凄く凝縮されてるしね。俺は勝手に“たそがれたプライマル・スクリーム”って言うよるけど(笑)。

山善:柴山さんに言われたですよ。「アルバム聴いたぜ。良かったやないか。タイコ誰や?」って(笑)。

──他でもない、柴山さんにとって盟友である鬼平(坂田紳一)さんですよね(笑)。

山善:柴山さんにそれを伝えたら、「そうやろ。音いいと思った」って。そういう上からの嫌がらせが今もあるんですよ(笑)。でもね、坂田さんが参加してくれることになって有り難いですよ。レコーディング始まる前に俺の家にメンバー全員集まって話して、その時に坂田さんが「山部、俺はもう後がないけんね。俺、本気やけんね」って言ってくれて。だから今回は俺もいつも以上にエラく気合いが入ったですよ。

原島:ロッカーズに提供した「可愛いアノ娘」を本人が唄うのも、音源としては初めてやけんね。

山善:原島の強い勧めがあったからなんだけど、「可愛いアノ娘」に関しては最初抵抗があったね。陣内が撮った映画『ロッカーズ』で中村俊介が爽やかに唄ってて、あれを聴いた時に素晴らしいと思ってたから余計にね。

原島:Rooftopを読みよる若い世代には、この『GIFT』を聴いてもらうと山善と博多の音楽の今までと今と今からがすべて符合するっちゃね。それとやっぱり、今なお山善は時代のジョイント役を担っていることがよく判るよね。

山善:そこまでの実感はなかけどね。とにかく、今年の春先にはレコ発ツアーも予定してるので、せっかくやけんまたロフトでライヴばやりたいね。


GIFT

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posted by Rooftop at 19:00 | TrackBack(1) | バックナンバー

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