ギター バックナンバー

近藤房之助('10年7月号)

近藤房之助

1968年当時の心象風景を呼び覚ますゆりかごのブルース


 日本が世界に誇る生粋のブルース・シンガー、近藤房之助が自身の音楽活動の根幹を成すブルースに焦点を当てたカヴァー・アルバム『1968』を発表する。1990年1月にリリースしたソロ・ファースト・アルバム『Heart Of Stone』から今年で丸20年。ブルースを軸に据えた転がる石と意志に苔が生えるはずもなく、記名性の高いその嗄れた歌声はますます円熟味を増すばかり。59歳を迎えた彼がブルースにのめり込んでいった1968年当時の心象風景を思い描こうとセレクトしたブルース・ナンバーは、ロバート・ジョンソン、B.B.キング、オーティス・ラッシュ、マディ・ウォーターズといったブルースの巨人たちの著名な楽曲群で、オリジナルに肉迫せんと発せられる凄味に満ちた歌と演奏にはただただ圧倒される。そんな近藤の至高のブルースを生で体感する絶好の機会が、我が阿佐ヶ谷ロフトAで開催されているプレミアム・ライヴ・シリーズ“VINTAGE A”だ。ライヴの開催を前に、最新作の話を伺うべく自身がオーナーを務める下北沢のショット・バー“STOMP”にお邪魔した。目前のブルースマンは「何でも訊いてよ」と笑みを浮かべながら瓶ビールをコップに並々と注ぎ、グイッと一気に呑み干した。(interview:椎名宗之)


音楽が職業になった20年

──近藤さんはBREAK DOWN時代(1976〜1986年)にロフトに出演経験もあるそうですね。

K:うん。下北沢ロフトでは2回くらいやったのかな。あと、荻窪ロフトでも1回やったね。下北ロフトの打ち上げで、国士舘大学のボクシング部と空手部の連中とケンカをやったことはよく覚えてる(笑)。尾関真っていう憂歌団の曲を書いてた男が挑発したみたいなんだけど、相手は腕っ節だし、ボコボコにされてさ。こっちは女の子たちとワーッと騒いでたから、向こうも気に食わなかったんだろうね。

──このSTOMPというバーをオープンさせたのは、下北沢という街ありきだったんですか。

K:下北くらいしか呑む場所を知らなかったんでね。当時は生まれ育った名古屋からこっちへ通ってたしさ。この場所はもともと知り合いがバーをやっていて、ここでよく打ち上げをやってたんだよ。その知り合いが店をたたむことになって、今から27年前に僕が譲り受けることにしたんだ。当時は1,500円しか持ってなかったんだけど、何とかなるだろうと思って(笑)。内装も全部自分で手掛けてさ。バンドだけじゃ食えないから、みんないろんなバイトをやるよね? 仮に日雇い労働の仕事をすれば、音楽から離れることになる。だったらここで働けば、ずっと音楽も流れてるし環境もいいんじゃないかと思ってね。

──近藤さんのファンやブルースの愛好者にはサロン的役割を果たしているのでは?

K:いや、そんなに敷居の高いもんじゃないよ。地方から東京へ来る時に寄ってくれる人もいるから有り難いけどさ。僕のやってる自転車のチームもこの店に集まる人間で組んでるし、言ってみれば街のスナックだね(笑)。

──今年はソロ・デビューを果たしてから20周年を迎える節目の年ということで。

K:そうらしいね。それまでの僕はずっとバンドマンだったから、いきなり自分の名前で活動することになった時は正直やりにくかったよね。匿名性を残して、BREAK DOWNの2番目のギタリスト兼ヴォーカリストとして地方を回るのが好きだった。未だに僕はそうだもんね。B.B.クイーンズ然り、織田哲郎や宇徳敬子とのデュエット曲然り、ああいうのはプロデューサーから話を頂いてのことだから。

──ただ、そうしたメジャー仕事をきっかけに近藤さんの知名度が格段に増したのも事実ですよね。

K:確かにね。ある日、この店の厨房で鍋を振ってたんだよ。そしたら、客から「ここに近藤房之助さんがよく来るって聞いたんですけど」って言われてさ。その時に“ああ、このままじゃいけないな”と思ってね。自分のやりたい音楽だけに固執することなく、ちょっと外側にも出てみようと。だから何でもやったよ。この店の従業員を食わせるために別の仕事をやらなくちゃいけないっていう本末転倒みたいなことにもなったんだけどね(笑)。温度計を作る地味なバイトもしたし、左官屋の仕事もやったし、バンドよりもギャラの高いナレーションの仕事もしたしね。音楽一本で食えるようになったのは40歳を超えてからなんだよ。だからこの20年というのは、ざっくり言えば『おどるポンポコリン』以降ってことだよね。職業が音楽になった20年って言うか。

──今回、20周年を記念して発表される『1968』ですが、およそ2年の制作期間を掛けてじっくり完成に漕ぎ着けたそうですね。

K:1968年当時に僕が頭の中で描いていたブルースのイメージみたいなものがあるんだけど、それを今やっているD-Toolsというバンドの連中に求めるのがイヤでね。バンドである以上、各人が培ってきたものを全部出すのが筋だと思うし、それぞれの個が少しずつ合わさっていく形が一番美しいと僕は思っているわけ。だから普段からあまり注文も付けない。でも、今度のアルバムは1968年当時の僕の心象風景がテーマだから、どうしても注文を付けなくちゃいけないし、それなら自分一人でやろうと思ってね。最初はコンピューターのマニピュレーターと2人だけで作業を始めたんだよ。そこから足りないものを付け足していった感じだね。打ち込みに僕の生ドラムを重ねてみたりして。

──2001年に『TAKE ME BACK TO THE BLUES』というブルースのカヴァー・アルバムを発表したことがありましたけど、それよりももっとプライヴェート色が強いわけですね。

K:あの時はパーマネント・バンドでスタジオに入って“せーの!”で録ったけど、今回はブルースの持つ匂いをもっと強く出したかったんだよ。だから敢えて一人でやってみた。



ブルースとは“超えられない何か”

──ロバート・ペットウェイの『Catfish Blues』を筆頭に、オーティス・ラッシュの『All Your Love I Miss Loving』やロバート・ジョンソンの『Sweet Home Chicago』といったあまりに有名なブルースのスタンダード・ナンバーばかり選ばれているのが少々意外だったんですが。

K:僕自身はもっとエグいブルースのほうが好きだし、最初はもっとマニアックな選曲で行こうと思ったんだけど、敢えてああいうブルースの入門編的な選曲にしたんだよ。あまり有名な曲ばかりをやると自分の力量のなさがバレちゃうのがネックだったんだけど、まぁいいやと思ってさ。ブルースっていうのは本来自由な音楽だと思ってるし、本場のブルースマンは自分の気分でやってるだけなんだよ。その気分が僕たちのお手本になってるのが悔しいんだけど、今回はブルースをブルースらしく唄うのが凄く難しかったね。

──この歳になったからこそ、王道のブルースを真正面から唄えるようになったとも言えませんか?

K:ホントはそのはずだったんだけどね。でも、これがちっとも渋くならないし、マディ・ウォーターズに比べたらまだまだ僕は子供だよ。僕にとってブルースとは、未だに超えられない何かなんだね。どう足掻いても超えられないものを持つことは、音楽をやる上で凄い大事なことだと思う。それがある以上、今もずっと浮ついた気持ちではいられないからさ。今回もブルースの古典を唄い込んで、相当に遠い存在だなと思ったよ。

──ブルースを知れば知るほど、ブルースが遠退いていくという…。

K:うん。誰からも羨ましがられるくらいブルースに近付いてるはずなんだけどね。オーティス・ラッシュと共演させてもらった時も、何かこう…遠い感じがしたんだよ。上手く言えないんだけどさ。ブルースは音楽である以前にアフロ・アメリカンの文化だし、最後はやっぱりそこに踏み込めないんだよね。僕はブルースが大好きだけど、自分で作った音楽じゃないよね? そこにいつもぶち当たってしまう。まるで自分が作ったかのようにブルースを唄うカタルシスには陥りたくないし、クールでいたいんだよ。

──コンポーザーと言うよりも、シンガーとしての資質が強いんでしょうか。

K:両方あると思う。今は曲をどんどん書いていきたいし、人真似じゃない何かがまだできそうな気がしているから。その辺は割と楽天的なんだよね(笑)。

──1968年、当時17歳だった近藤さんはどんな少年だったんですか。

K:名古屋市立工業高等学校のデザイン科に入ったんだけど、別にデザインをやりたかったわけじゃないんだよ。授業で絵を描ける学校ならどこでも良くて、当時は油絵にのめり込んでたね。大学も油絵の学校へ行ったんだけどさ。まだライヴハウスもない頃で、ディスコみたいな所に住み込みで演奏をし始めた頃でもあるね。

──ジョン・メイオール、クリーム、テン・イヤーズ・アフター、ポール・バターフィールズ・ブルース・バンドといったブルースを基軸としたバンドが隆盛を誇っていた時期ですよね。

K:うん。そういうのも聴いたけど、すぐにオリジネーターまで遡って聴くようになったね。ちょうどキングレコードがブルースのレコードをシリーズで出していたし、『ニュー・ミュージック・マガジン』がブルースの特集をやったりして、ブルースが盛り上がる気運が高まっていた時期なんだよ。NHKでもシカゴ・ブルースの番組をやっていたし、“こんな世界があるんだ”と思って、そこから入り込んだんだよね。

──ブルースのどんな部分に一番惹かれましたか。

K:たとえばさ、ロバート・ジョンソンの『Me and The Devil Blues』に“I'm goin' to beat my woman, until I get satisfied”(俺の女を気が済むまで殴りたい)っていう歌詞があるんだよ。ムチャクチャだなと思ってさ。“こんなことを唄っていいのか!?”っていうのがまず素直な驚きだったね。売るためのエクスキューズがまるでないし、あまりに赤裸々だった。そこに惹かれたのかもしれない。小学校の5、6年生の頃からキャッシュボックスやビルボードのトップ10に夢中だったけど、1968年を境に全く見向きもせず、ブルースしか聴かないようになった。ヒット・チャートにもいい曲はあったのにね。マーヴィン・ゲイの『Let's Get It On』とか、うんと後から聴いて“いい曲だな”と思ったけど、当時はとにかくブルース一色だった。



いいバンドをこさえる自信はある

──当時、友人と2人でブルースもどきをオープンリールのテープレコーダーで録音して、アセテート盤を15枚作ったそうですが、今思えばインディーズの走りみたいなものですよね。

K:そうだよね。終いには「これが今ロンドンで流行ってるブルースだ」なんてウソをついて売ったりしたんだから(笑)。

──そのアセテート盤は今も残っているんですか?

K:あるよ。この店にはないけど、マネージャーが今も持ってると思う。

──ブルース一辺倒の高校生というのも、随分と早熟ですよね。

K:クラスにはいなかったよね。ブルースのレアなレコードを売っていた大阪の坂根楽器には何度も通ったし、英語がちょっと得意だったから世界中のコレクターズが開くオークションにも参加したり、当時はディスク・マニアだったんだよ。レアなレコードを5枚くらい仕入れて、1枚は自分のものにして、後は色を付けて売ったりもしたね。

──その一方で、自らブルースを唄うことにも意識的であったと。

K:でも、職業として音楽をやろうと思ったのは40歳を過ぎてからなんだよ。バンドは純粋に楽しみでやっていた感じだね。ブルースで食っていけるなんて、最初から思ってもなかったからさ。

──近藤さんの嗄れた歌声には近藤さんの人生がそのまま凝縮されているし、今回の『1968』を聴くと、その歌声に凄味と説得力が益々増しているのを感じますね。

K:シンガーが100人がいたら100人とも人生が滲み出ているはずだよ。僕は昔から小児喘息だったからこういう変わった声になっちゃったんだけど、キーが高くてキツい曲もある。だから、出る出ないに関わらず、声を出してきたということだね。

──やはり、生涯バンドマンで在り続けたいという意識は強いですか。

K:強いね。年に1回武道館でライヴをやるアーティストよりも、ドサ回りで200本くらいライヴをやるバンドマンで在りたい。

──以前、“バンドをこさえて、発酵を待つ”ことがご自身の仕事であるとブログに書いていましたが、その“発酵”の塩梅がなかなか難しいですよね。

K:時間は掛かるね。やっと発酵させたという頃に誰かが死んだりもするしさ。それでまた一からやり直し。でも、それが僕の仕事なんだよ。正直に言うと、僕の歌は三流だと思ってる。ギターは二流かな。ただ、バンドのリーダーとしては一流半くらい行けると思うんだ。ずっとバンドありきで生活してきたし、いいバンドをこさえる自信はあるね。一番ある。死んだ大村憲司から唯一褒められたことでもあるしさ。「ふうちゃんはバンドを作る天才だから」って。

──テクニックも大事でしょうけど、人間性はそれ以上に大事ですよね。

K:うん。ただ、ステージでメンバーと握手したいし、仲良しでもステージで握手できなければプロとして意味がないからね。僕がやってきたバンドはどれも、ツアーの空き日には全員が揃ってどこかで呑んでるよ。死んだ青木(青木智仁:Fusanosuke & His B & Oのベーシスト)が「こんなバンド、初めてだ」って言ってたしね。

──Fusanosuke & His B & Oは一番理想的なバンドでしたか。

K:理想的ではなかったね。そういうところは欲張りなんだよ。あのバンドでは4ビートができなかったからさ。ドラムの五郎ちゃん(正木五郎)をいい感じにファーチャーしようと思うと、8ビートの曲が合うんだよ。だからファンク・ブルースみたいな音楽になったんだよね。渋いブルースをやる感覚じゃなかったね、あのバンドは。要するに、何かを選択すると何かが欠落することになるんだね。あの女は器量はいいけど頭が悪い、みたいなさ(笑)。

──阿佐ヶ谷ロフトAで行なわれる“VINTAGE A”にはThe Buried Aliveというトリオ編成での参戦となりますが。

K:The Buried Aliveは一番場数を踏んでるバンドなんだよね。日本全国の小さな会場をこちらから攻めて行こうっていうさ。気心の知れたメンバーだし、リラックスして唄えるね。駆動力があるし、ハイエース1台で回れるのもいい。そういう旅が大好きだから。




生まれ持ったもので勝負するしかない

──近藤さんのライフスタイルにおいて“旅”は欠かせないキーワードですよね。

K:とにかく旅が好きなんだね。これまでにトランジットを含めて世界52ヵ国を訪問してきたから。ただ、今は田舎で百姓をやるっていう新しい夢があるんだよ。晩年は畑を耕したいと思ってさ。あと、ちゃんとした学校はムリだけど、今の自分が持っているものを全部教えたいなと思って。徒弟制度でお弟子さんを取るみたいな感覚でね。大村憲司が生前、学校をやりたいって言うのを聞いてビックリしてさ。「その時は講師として来てくれないか?」って頼まれたから、「いいよ。俺で良かったら」って答えてね。それがずっと引っ掛かってるんだ。たとえば、日本の音符は休符がないって言うよね。休符もれっきとした音符なのに。そういうことを若い人たちに教えてあげたいんだよ。それに、今は似たようなスタイルのギタリストが多かったりするでしょう? 人の数だけスタイルがあっていいのに。ギタリストに限らず、自分だけの気持ちいいトーンを探すべきだよ。たとえばメイシオ・パーカーのサックスは音数が少ないのに、もの凄くいいじゃない? ああいうことを広めたいんだよね。

──音楽の世界でも、演者の没個性化が進んでいると?

K:音楽がビッグ・ビジネスになって、売れる路線みたいなものが出来てくると、似たり寄ったりの二番煎じが増えてくるんだよね。どうしてアンチテーゼにならないのかな? っていつも思うんだ。音楽家たちがこぞって同じ方向に向かうのが、僕には凄くもったいないことに思える。音楽というのは人の数だけあって、自分の努力で個を証明させるのが音楽の一番素晴らしいところのはずなのにね。以前、パパ(ゴードン・エドワーズのこと)を日本に呼んで、日本人だけでバンドを組んだことがあるんだよ。「どう、日本のミュージシャンは?」ってパパに訊いたら、「充分に上手いよ」と。「ただ、人の音を聴いてないね」って言われてさ。これは耳が痛かったよ。「バンドのグルーヴが上向きになった時に邪魔することがテクニックだとあいつらは思ってるのか?」って訊かれて、返す言葉がなかったね。やっぱり、モノホンは違いますよ。

──その中でも、日本人にしか体現できないブルースを近藤さんは追求し続けている。

K:そうなんだよ。ニューヨークやロンドンで演奏する時には逆にそれが武器になるんだ。昔は自分の日本人らしさがどうもイヤだったけど、それはもうしょうがないし、生まれ持ったもので勝負するしかないもんね。まぁ、顔はフィリピン系だけどさ(笑)。

──執拗なこだわりが年々薄れて、身軽なスタンスになれているのでは? 『1968』での歌声はいつになく伸び伸びとしているのを感じますし。

K:そう捉えてもらえると嬉しいけどね。確かにラクにはなってきたけど、目標がなくなるのが怖いんだよ。昔は僕よりも明らかに才能のある人たちがいっぱいいたけど、僕のほうが続いてるもんね。それは、自分が常に“まだまだだ…”って思っているからこそだと思う。

──いわゆる克己心の賜物なんでしょうね。

K:そうだね。ブルースという素晴らしいお手本があるわけだから、それに近付きたいし、もっともっと上手くなりたい。音楽で生活を成り立たせている以上、ある程度上手くならなくちゃいけないし、サルのセンズリみたいなことはやりたくないからね。素人ほど自分の音楽にうっとりしちゃうんだよ。僕は未だに自分の声が好きじゃないし、それを補うようにもっともっと上手くなろうと思ってる。だから続いてるんだろうね。



死ぬまで音楽家として成長し続けたい

──60歳を目前に控えて思うところは?

K:50になる前のほうがしんどかったかもしれない。何なんだろう、やっぱり背伸びをしていたんだろうね。

──でも、ブルースの探究は延々背伸びをすることでもあるわけじゃないですか。

K:そうなんだよ。相当ハードルが高いからね。50を超えて肩の力が抜けたとも言えるし、何かをないがしろにしたとも言える。さっきも言ったように、何かを選ぶと何かを失うことになるんだね。でも、しょうがないよね。これが僕のやり方なんだろうな。音楽って吹っ切れればいいってもんじゃない。常に後悔があるし、いい時の演奏なんて覚えてないんだから。よく覚えてるのは、この間のライヴでヴォーカルをトチっちゃったなとか、そんなことなんだよ。

──ソロ・デビュー後のアルバム4作はいずれもライヴ・レコーディングでしたよね。

K:うん。素っ裸で歩いてるようなもんだったよね(笑)。でも、あの一連の作業の中で僕は少しずつだけど上手くなってるんだよ。

──ライヴも音源も、近藤さんにとってはすべて通過点に過ぎないんでしょうね。

K:そうだね。人間は死ぬことで完結するわけで、その中で音楽家としてもっと成長したいし、口幅ったいけどホントに上手くなりたい。ゴールのない道を死ぬまで突き進むのは音楽家の宿命だしさ。

──ステージ上で息絶えるのが本望、みたいなところはありますか。

K:特にそういうふうには思わないけど、生きている限りは現役でいたいね。“あの人は今!?”みたいなのはまっぴらゴメンだよ。

──近藤さんのようにあらゆる国々を旅する自由人は、日本を飛び出して海外へ移住したほうが居心地がいいのかな? なんて思いますけれども。

K:一時、ニューヨークに住むことも考えたよ。パパも世話してくれたんだけど、そこで行ったところでなぁ…と思ってね。僕は今の生活が一番幸せだな。

──ちなみに、ロフトAのある阿佐ヶ谷にはどんなイメージがありますか。

K:阿佐ヶ谷と言えば安い呑み屋が多いのと、フレンド商会っていう自転車屋があるよね。あと、南阿佐ヶ谷ブルース・バンドっていうのがいて、大昔に一度共演したことがある。

──近藤さんと言えばスポーツ用自転車でのツーリングも趣味のひとつで、ロングライドの大会にも度々出場していることでも有名ですね。

K:自転車に乗ると、ものを考えていられないんだよ。車の方向指示器とかに神経を使うし、頭を空っぽにしないといけない。あの空っぽになる感じがいいんだな。リセットされる感じがするしさ。普段は音楽のことでウジウジ考えてるし、自転車に乗るとそこから解放されるんだね。

──自身の原点に立ち返った作品を完成させて、次なる活動の指針は?

K:曲作りに入ろうと思ってる。今はどんどん曲を書きたい時期なんだろうね。歌を通じて何かを伝えたいなんて大袈裟なことはないんだけど、こんなバカがまだ生きてるんだからお前も頑張れよ、って言うかさ。僕は街の音楽屋でいいんだよ。音楽で平和を唄い続けるとか、そういうのは得意じゃない。僕の歌を聴いて、ちょっとだけ気持ち良くなってくれたら嬉しいね。ロンドンの小さいパブとかで唄ってるようなバンドマンで一生いたいな。僕は根っからそういうタイプなんだね。



13th ALBUM
1968

ZAIN RECORDS ZACL-9044
3,000yen (tax in)
2010.7.07 IN STORES

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Live info.

VINTAGE A Vol.3 〜近藤房之助 The Buried Alive 阿佐ヶ谷ライヴ〜
2010年7月19日(月)阿佐ヶ谷ロフトA

出演:近藤房之助 The Buried Alive[近藤房之助(vo, g)、小山英樹(key)、川相賢太郎(g)]
オープニング・アクト:矢口壹琅&Mud Pie Mojo[矢口壹琅(vo)、KJ(b)、FUMI(g)、DAVEアイバ(hp)]
開場 18:00/開演 19:00
前売¥4,000/当日¥4,500(共に飲食代別)
*チケットは、ローソンチケット(L:37913)、イープラス、ロフトAウェブ予約にて発売中。
企画協力:ハーヴェストプランニング
問い合わせ:阿佐ヶ谷ロフトA 03-5929-3445

近藤房之助 official website
http://www.fusanosuke.net/

posted by Rooftop at 12:00 | バックナンバー