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宮田和弥[JUN SKY WALKER(S)]×MAGUMI[LA-PPISCH]×安藤広一[ex.THE ROOSTERZ/スピードスター・ミュージック代表取締役]×スマイリー原島[ex.THE ACCIDENTS]('10年5月号)

宮田和弥[JUN SKY WALKER(S)]×MAGUMI[LA-PPISCH]×安藤広一[ex.THE ROOSTERZ/スピードスター・ミュージック代表取締役]×スマイリー原島[ex.THE ACCIDENTS]

“バンドブーム”のスタンダード性を再検証するライヴ・バトル・ショウ!


 音楽を取り巻く環境が劇的な変化を遂げ、様々な革新的ムーヴメントが生まれた80年代。“バンドブーム”はそんな80年代中盤以降に勃発し、社会現象にまでなった一大ムーヴメントだ。その“バンドブーム”とは何だったのかを回顧しつつ、現代にも通ずる色褪せぬスタンダード性を再検証するイヴェントが音楽制作者連盟・主催の『NEXUS“BATTLE 80's LIVE SHOW 〜バンドブーム・リターンズ〜”』だ。ブームの往時を牽引したバンドマンが一堂に集結し、2チームに分かれて繰り広げるライヴ・バトル・ショウである。このイヴェント開催を記念して、2チームのキャプテンであるジュン・スカイ・ウォーカーズの宮田和弥とレピッシュのMAGUMI、イヴェントのプロデューサーであるスマイリー原島、音楽制作者連盟の理事も務めるスピードスター・ミュージック代表の安藤広一に“バンドブーム”という日本のロック史における大きな発展期について存分に語り尽くしてもらった。(文・構成:椎名宗之)


なかなか出られなかったロフト夜の部

原島:今回の『BATTLE 80's LIVE SHOW 〜バンドブーム・リターンズ〜』は、和弥チームとMAGUMIチームに分かれてバトルする趣向なんですよ。宮田和弥、浜崎貴司、アキマツネオ、川上次郎、源 学という布陣の和弥チーム、MAGUMI、水戸華之介、杉本恭一、森若香織、ISSAY、広石武彦という布陣のMAGUMIチームが激突するという。

宮田:ああ、そうなんだ? 今、初めて知った(笑)。

安藤:チーム名も付けたんだよね?

原島:一応付けてみたんだけど、ISSAYから「僕はポコチンでもナゴムでもないし、イカ天でもホコ天でもない」という申し出がありまして(笑)。なので、単純に和弥チームとMAGUMIチームがいいのかなと。

MAGUMI:採点はどうやってするの?

原島:まだ未定です。最後は和弥とMAGUMIのガチ勝負で決めるのがいいんじゃないかな。

宮田:両チームが交互に演奏していく、『紅白歌合戦』みたいな感じ?

原島:そうです。あなた方はキャプテンなんですよ。芸歴の長いお2人ですから、演奏の合間にもトークバトルを披露して盛り上げて頂きたいですね(笑)。ところで、皆さんのデビューはいつ頃でしたっけ?

宮田:レピッシュが先だよね。ジュンスカは'88年5月にメジャー・デビューだから。

MAGUMI:そうだね。ウチのメジャー・デビューは'87年9月。安藤さんは?

安藤:ルースターズに入って最初のリリースは『ニュールンベルグでささやいて』だから、'82年10月かな。

MAGUMI:俺はまだ脇毛も生えてない頃だね(笑)。

原島:俺が'84年デビューなんで、この面子は上手い具合にバラけてるね。ちなみに、和弥がバンドをやり出した場所はホコ天だったの?

宮田:いや、学校の音楽室。学祭でバンドを初めてやったのが中学3年の時で、それから福生のUZUや高円寺のレッドハウス、新宿のジャムなんかに出るようになった。でも、最初はお客が入らないから、友達にチケットを売り付けたりしてね。最初は付き合いで来てくれるんだけど、そのうち居留守を使われるようになるわけ。それで仕方なくホコ天に出て行ったんだよ。

原島:当時の原宿は、ローラー族が全盛の頃でしょ?

宮田:うん。でも、バンドも2、3組ほどいたね。僕たちがホコ天に出始めた頃はまだ縄張りみたいなものがあったかなぁ。けど、ライヴが終わる時間帯にロックンロール族の人たちが来て「ゴミはきちんと片付けていこうね」って。当時から凄くエコだったね(笑)。

原島:当時からそういう自然発生的な“ごみゼロナビゲーション”があったんだ?(笑)

宮田:そうそう(笑)。しょうがないから、楽器を片付けて、お客と一緒に捨てられたゴミを持ち帰ったりしたね。

原島:MAGUMIの東京での初ライヴはどこ?

MAGUMI:一番最初は、明治大学の学祭だね。その1ヶ月後くらいに新宿ロフトの昼の部かな。

原島:ああ、いつまで経っても夜の部に出られなかったという。

宮田:ロフトは僕たちもそうだったよ。

MAGUMI:動員を増やせば夜の部に出せてもらえると思って、頑張って110人くらい呼んだことがあったんだよ。当時、Zie-SKIPSっていう女性ヴォーカルのバンドとよく対バンをさせられてたんだけど、彼らはいつも3、4人しか呼んでこないの。それなのに、夜の部へ移ってもZie-SKIPSと対バンが一緒で、動員を頑張っても頑張らなくても一緒じゃん! って思って(笑)。そのバンドが凄くいいならまだ納得できたんだけどね。

原島:聞いたことないもんね。スキップカウズなら知ってるけど(笑)。人気や動員があっても、必ずしも優遇されたわけではないと。

MAGUMI:昔のライヴハウスの人は好き嫌いが激しかった気がするね。のぼせもんみたいな連中は嫌われてたし、ストイックで寡黙なバンドが好かれてた印象がある。

原島:確かにね。ジュンスカはホコ天の後、ラ・ママでよくやってたよね。

宮田:後に僕らの事務所の社長になる門池(三則)さんは当時ラ・ママのブッキング・マネージャーで、僕らが高校生だった頃から可愛がってくれてたんだよ。昼の部で“高校生ロック・バトル”とかを組んでくれたりね。そのイヴェントにストリート・ロック・ファッカーズっていうバンドが出ていて、そこにウェルズの坂巻 晋がいたんだよ。そんな流れもあった後にキャプテンレコードからアルバムを出すことになって、安藤さんにプロデュースをしてもらって。そのタイミングで門池さんがラ・ママを辞めて、バッド・ミュージックを作ったんだよね。



ブームの発火点は『宝島』だった

原島:80年代って、今思えばジャンル的には何でもアリの混在した時代だったよね。

宮田:うん。僕らがラ・ママに出ていた頃は有頂天と米米CLUBが花形バンドだったけど、44マグナムとかも出てたんだよね。ナゴム系もあればパンク系もあり、ヘヴィメタもあり、混沌としてた。

MAGUMI:当時のラ・ママはグラム系のイメージもあったよね。

宮田:そうだね。ジギー、マルコシアス・バンプ、ちょっと後にイエロー・モンキーとかね。

原島:ライヴハウスに音楽的なジャンル分けが今ほどなかった時代だったよね。

MAGUMI:鹿鳴館も昔はヴィジュアル系ばかりじゃなかったしね。

安藤:俺は80年代の前半だから、鹿鳴館でも屋根裏でもライヴをやったんだよ。

MAGUMI:ウチも鹿鳴館は2回やってるんだよ。ブッキングの人が気に入ってくれて。

安藤:俺たちの時代は、ノルマなんて言葉もまだなかった。

宮田:ラ・ママは20〜30枚のノルマがあったよ。ただ、門池さんは当時貧乏な僕たちにノルマなしでやってくれてたけどね(笑)。

安藤:世の中的にはジュンスカやレピッシュが活躍していた頃をバンド・ブームって言うけど、何がきっかけでブームになっていったのかね?

原島:俺は『宝島』がきっかけだった気がするね。『宝島』というフレームに収まった時点からひとつのムーヴメントとして捉えられたんだと思う。

MAGUMI:僕らは確実に『宝島』だった。その後、エロ本になったり、経済誌になったりするとは思わなかったけど(笑)。

宮田:ホコ天のブームがあって、『宝島』も音楽誌の色が強くなっていったんじゃないかな。それまではもっとサブカル全般を扱っていたじゃない?

MAGUMI:まさしくこの『ルーフトップ』のように、紙質や判型がだんだん変わっていったよね。最初の頃はもっとミニコミみたいだったし。

安藤:サブカル雑誌としては、『ビックリハウス』と『宝島』が張ってたからね。『ビックリハウス』はちょっとインテリっぽくなりすぎたけど、『宝島』はその時代の現象を上手いことボトム・アップしていった印象がある。

MAGUMI:初めて全国ツアーを回った時、広島の33人っていうのが実売の最低だったんだよ。他の会場はほとんどソールド・アウトだったし、初めて行ったのに33人って、立派な数字じゃない? それも『宝島』効果だった気がする。

原島:俺も初めて東京でライヴをやった時、博多よりも客が入ってるのを見て驚いたよね。それまで、『シティロード』と『宝島』に小さな記事が載った程度の露出だったにも関わらず。だからやっぱり、今よりもメディアに力があったんだよ。

MAGUMI:あと、ブルーハーツの存在も大きかったんじゃないかな。当時、対バンが一番多かったのはブルーハーツで、最初に火がついたのは彼らだったね。

宮田:そうだよね。僕の中では、ブルーハーツ、レピッシュ、ロンドンタイムスがいつも一緒にライヴをやってた印象があるんだよ。僕らよりもちょっと上の世代って言うか。

原島:確かに、ブルーハーツが世に出て行った時の衝撃は凄かったよね。口コミで瞬く間に広まっていったし、メディアで取り上げていたのは『宝島』くらいだったんじゃないかな。

MAGUMI:あの頃はミニコミが凄くたくさんあって、どのミニコミでもブルーハーツを特集してたんだよ。ミニコミというメディアが活発だったのも、新しい時代の夜明けみたいに感じてたね。

原島:ホコ天とかストリートに根差した現象を積極的に取り上げていたのは、『宝島』やミニコミだったよね。一般のメディアは関心がなかったじゃない?

MAGUMI:でも、ホコ天はテレビがけっこう取り上げてたよね。僕らよりもちょっと後の時代かもしれないけど。

宮田:僕らがホコ天でやってた頃の2年くらい後かな、“イカ天”(『平成名物TV 三宅裕司のいかすバンド天国』)が始まったのは。

MAGUMI:ブームやヒューズ、カステラとかが出てきた頃はもうテレビがクローズ・アップしてたよね。

原島:全盛時のホコ天には何人くらい人が集まってたの?

宮田:何千人も来てたみたいだね。最後の頃は人が多すぎて警察まで来ちゃうから、3曲くらいやって撤収するような感じだった。

原島:規制がまだ緩やかな時代だったし、学祭とかも凄かったよね。ルースターズと一緒に上智大学の学祭に出た時、5,000人くらい客が来たんだよ。もはやちょっとしたフェスだったからね。だから、当時のメディアは規模が小さくても波及効果は大きかったよね。今みたいにいろんなものを広く浅く検索はできなかったけど。

MAGUMI:今は情報が多過ぎるからね。セックス・ピストルズが出てきた時に、“この人たちは宙を浮いて演奏してるんじゃなかろうか!?”って思うくらいのもの凄い衝撃を僕は受けたから。手掛かりになるのは、音と写真だけ。だから、情報があり過ぎるのも問題なんだと思うよ。



情報が少ないぶん密度が濃かった時代

原島:80年代は選択肢の少なさが逆に良かった時代だったんだろうね。

安藤:選択肢が少なかったぶん、ひとつの情報の密度が濃かったんじゃない? 今は1千万人に向けて宣伝しても動くのは1万人くらいだったりするけど、昔は2万人にしか発信してないのに2万人全員が動くような感じだったよね。

原島:情報が少なかったぶん、熱伝導は早かったんだよ。1人が「いい!」と思えば、その後ろに100人くらいの支持者がいるような感じだったからね。

MAGUMI:ブームにトドメを刺したのは、テレビが本気でバンドを取り上げたことなんだよね。今、テレビでお笑いの人が重宝されるのは、ギャラも多くは掛からないし、視聴率も取りやすいからでしょ? それに近いものが当時のバンドにはあったんじゃないかな。要するにブームっていうのは、テレビに出ていいかどうか判らないギリギリの人たちが出れるってことだよね。メジャーな人はいつの時代でも出られるから。

原島:当時、自分たちが何枚くらい売れてるのかを認識してた? 俺自身はそんなこと全然考えてなかったけど。

宮田:僕もあまり考えてなかったなぁ…。

MAGUMI:僕は認識してたよ。たとえば、キャプテンから出した『アニマルビート』は3,000枚プレスして、それがすぐになくなったんだよ。

宮田:僕はそういうのに頓着しなかったんだけど、後からいろんなことを知って“エーッ!?”と思うようなことはあったかな(笑)。

安藤:あの時、ちゃんと印税配分にしておけば良かったよね。俺も貰えるものが貰えなかったもん(笑)。

宮田:たとえば、今の若いバンドは自分たちで洋服のブランドを立ち上げて、それを着てライヴをやるビジネスも考えてるじゃない? 僕は知り合いのアパレルからシャツを貰って着てたけど、その店の人たちはジュンスカ効果で儲けてハワイ旅行とかへ行ってるわけ。僕自身は一銭も貰わずに洋服を貰って喜んでいただけだけど、広告塔として凄まじい宣伝をしていたんだよね。

原島:MAGUMIと和弥、騙されなかった人と騙された人にきっぱり分かれたね(笑)。

MAGUMI:僕らの時代は、まさかバンドでメシが喰えるなんて思ってもみなかった。記念にアルバムが出せたらいいなくらいの気持ちだったし、夢だったのは野音でライヴをやることだったんだよね。安藤さんもルースターズとして出てたサンハウスの“CRAZY DIAMONDS”を見に行って、いつかあの場所でライヴをやってみたいと思った。

原島:夢の持ち方が今みたいに数値化されてなかったよね。ライヴをやる場所だったり、セールスはさておきアルバムを出すこと自体が夢だった。

MAGUMI:ライヴの前に一番緊張したのは、初めてロフトの夜の部に出た時なんだよ。まぁ、対バンは相変わらずZie-SKIPSだったけど(笑)。

宮田:僕もロフトでライダーズとやった時は凄く緊張したな。そのライヴは今もよく覚えてる。あと、原島君のアクシデンツ、アンジーと一緒にやった時も覚えてるよ。

MAGUMI:僕らが大宮フリークスでアクシデンツとやった時は面白かったよ。原島君が隣の楽屋で暴れてて(笑)。「お前たち! レピッシュなんてガキのごたぁバンドに負けてどげんするとッ!?」って言いながら、壁や椅子をバッコンバッコン蹴り散らしてるのが聞こえてね(笑)。

原島:あったね(笑)。あと、ロフトの“アトミック・カフェ”でレピッシュと一緒になった時、MAGUMIと恭一が熊本弁で話し掛けてくるわけ。俺は熊本が出身だけど、住んだことはないんだよ。あまりにもネイティヴな熊本弁だから、俺にも判らんわけ(笑)。

MAGUMI:今も熊本に帰ると、「お前のその熊本弁、懐かしかぁ! 今はそんな言葉、使わんけん!」って地元の連中に言われるからね(笑)。

原島:あの熊本弁は衝撃的だったね(笑)。ジュンスカ、アンジー、ロンドンタイムスと一緒にツアーを回った時、筑波の29BARの楽屋でみんなでしりとり合戦をしたよね。自分のバンドのメンバーと喋らずに他のバンドのメンバーとゲームをしたりして、不思議な習性があったよね。

宮田:ああ、確かにね。

MAGUMI:アンジーとは完全に茶飲み友達だったもんね。別に酒を飲まんでも仲良くやってたし。

宮田:僕も水戸(華之介)君の家によく遊びに行ってたもんなぁ。ただゲームをやって帰るだけなんだけど(笑)。意外かもしれないけど、ジギーの森重(樹一)君なんかも仲が良かったんだよね。

MAGUMI:ジギーで言えば、僕はドラムの大山(正篤)とよくつるんでたね。

安藤:レピッシュはBUCK-TICKとも仲が良かったよね?

MAGUMI:うん。

宮田:僕の中でMAGUMI君は狂気の人っていうイメージがあるんだよね。“金沢ポップヒル”の最後で『また逢う日まで』をみんなで回していくのがあって、MAGUMI君がAメロの所で「君たち男の子〜♪」って全然違う歌を唄ったんだよ(笑)。“この人、狂ってるなぁ…”って思ったもんね(笑)。

原島:“ブーム”と言われたくらいだから、80年代のバンドは凄く軽く見られていた時期もあったけど、今や完全にスタンダードになっているんだよね。当時の曲が今もCMに使われてるしさ。あと、『アメトーーク!』の“バンドブーム芸人”に和弥が出てるのを見たけど、芸人の人たちに凄くリスペクトされていたじゃない?

宮田:今一線にいる芸人さんたちがちょうどバンドブーム世代だからね。『SMAP×SMAP』にジュンスカが出たのも、木村(拓哉)君と中居(正広)君が「ジュンスカを出してくれ」ってリクエストしたのがきっかけみたいだし。

バブル期の歩みと重なるバンドブーム

原島:バンドブームはバブルのイメージと相俟って捉えられていたし、あまりに世の中に急激に浸透したから消耗された感もあったけど、実は音楽として定着していたというね。

MAGUMI:まさしくバブルと同時期だったよね。バブルの入口から出口までを全部見たもん。

宮田:レコーディングの制作費の使い方も凄かったからね。ジャケットを撮影するためだけに外国へ行くなんて、今じゃとても考えられないしさ。

MAGUMI:当時はレコード会社自体がおかしかったよ。「お金を使い過ぎちゃって、あと2ヶ月間は会社にお金がない」って言うんだから(笑)。

原島:昔の八百屋みたいなもんだよな。ザルから金を取ってるようなさ(笑)。

MAGUMI:そうそう。だって、同じ飲み屋にレコード会社のボトルが何本もあるんだから。

原島:俺自身はバンドブームに入れなかったけど、その渦中にいたらもっとヘンな人間になっただろうと思うよね。

MAGUMI:でも、売れた反面、社会的にはヒドい目にも遭ってたよ。バブルの頃は、安い家も高い家も家賃が更新ごとに必ず1割5分ずつ上がっていくわけ。でも、2回くらい更新すると引っ越さなきゃならなくなる。だって、7万円の家賃が1割5分上がるってことは、8万4,000円になるんだよ? もう一度更新したら10万円超えちゃうでしょ? ウチのマンションはヒドくて、1割5分以外にも管理費まで取ってたんだから。どんなに物価上昇があっても、1割5分まで上げるのは法律でギリギリ許されてるんだよね。

原島:へぇ。これが騙されなかった人と騙された人の違いだね(笑)。80年代の音楽の世界は飽食でバブリーな感じがあったけど、やってることは凄く真摯で、パイオニア的なことが多々起こったよね。

MAGUMI:あの時代でいろんなことが海外に追い付いてきた気がする。それまでの日本は海外の動きに10年くらい遅れていたと思うし。

原島:あの時期に加速度的に追い付いたと言うよりも、日本なりの新しいやり方を作り出したところはあるよね。イギリスではインディペンデントなレーベルが生まれていたけど、日本ではインディーズという独自の形態を作っていったじゃない?

宮田:あと、テレビに出ないことがひとつの美学としてあった。それまではロック・バンドも歌謡番組に出ていたけど、BOφWY辺りから風向きが変わっていった。結局、最後はランキング番組みたいなものがなくなっていったしさ。

原島:テレビという巨大メディアに頼らずに自分たち独自のネットワークでバンドを広めていったという意味では、凄く革新的だったよね。ミニコミにしろ、『宝島』にしろ。

MAGUMI:今の若い子たちは、最初からこの『ルーフトップ』みたいな雑誌を自分たちで作っちゃうかもしれないね。

宮田:言えてるね。今は紙で作るよりもウェブ上で何でもやれちゃうんだろうけど。

MAGUMI:あと、今の子たちは僕たちに比べてがっついてないよね。

原島:確かに、客を取ることを真剣に考えていたからね。

宮田:対バンは戦いを挑むところがあったしね。頑張れば着実に動員が増えたし、それを実感できたから次のライヴも頑張れた。

編集部:ブームが失速していくことに焦りみたいなものはなかったですか。

宮田:どうだろうなぁ…。驚いてるうちに終わった感じだね。ジュンスカは武道館や西武球場まで行くのがエラい早かったからさ。渋公でライヴをやった時は家賃2万円のアパートに住んでたし、まだビデオ屋でバイトしてたんだよ。打ち上げは風呂屋が閉まる時間に帰ってたくらいで。それが急にお金が入って、急にホール・ツアーになって、全国のスタジアムを回って…ブームを実感する暇がなかった。1年間に200本はライヴをやってたし、その合間にレコーディングもあったし。森 純太は武道館でライヴをやるまで安い所に住んでたって言ってたね。引っ越す暇がないから。当時はどこか地方にいるか、東京にいても針治療して身体をメンテしてた印象しかないんだよ。

原島:凄まじいね。ある種、バンドのピンク・レディー状態だね(笑)。

MAGUMI:日本の地理に強くなったもんねぇ(笑)。

宮田:うん、なったなった。僕らは都道府県で行ったことのない場所がないから。佐渡島まで行ってるしね。佐渡島で点滴を打ちに救急車に乗ったんだよ(笑)。ツアーに行くと、金沢にはなぜかMAGUMI君がよくいたんだよね。レピッシュのツアーはないのに(笑)。

MAGUMI:よく遊びに行ってたからね。その時は金沢に1週間泊まってた(笑)。

原島:考えてみれば、それだけツアーを回れたのも凄いよね。今はやりたくても経済的にやれないじゃない?

宮田:北海道だったら札幌だけじゃなくて、北見、旭川、帯広、函館…と5、6ヶ所はバスで回ってたからね。

MAGUMI:帯広はライヴをやったことないけど、スキーで1週間泊まったことはあるな。俺、遊んでばっかりだけど(笑)。

原島:今のバンドがちょっと不憫に思えてくるね。それほどの成功体験はなかなかできないだろうし。

安藤:今みたいに決まりがなくて勢いがあったから何でもできたんだよ。今は経験値をもとに数字を当てはめるからせこいことになっちゃうんだ。このまま凡人がありきたりなことをやってるとダメになるし、狂った人が勢いに任せて自由に面白い音楽をやっていくべきなんだよ。そういうのをまた和弥とMAGUMIでやればいいじゃん。…って、勝手にまとめちゃったけど(笑)。

原島:今回のイヴェントは、そういう狂った人たちが一堂に会すからね(笑)。なぜその狂気を未だに持ち得ているのかも大きな見所のひとつと言うか(笑)。いずれにせよ、80年代のバンドの音楽が如何にスタンダードになり得ているのかが今回のイヴェントで実証できるだろうし、楽しみだね。


Live info.

NEXUS
BATTLE 80's LIVE SHOW 〜バンドブーム・リターンズ〜

2010年6月5日(土)新木場 STUDIO COAST
◇MC / Vo:MAGUMI[LA-PPISCH]
ISSAY[DER ZIBET]/広石武彦[UP-BEAT]/森若香織[GO-BANG'S]/水戸華之介[ANGIE]/杉本恭一[LA-PPISCH]
◇MC / Vo:宮田和弥[JUN SKY WALKER(S)]
アキマツネオ[マルコシアス・バンプ]/源 学[GEN]/川上次郎[KUSUKUSU]/浜崎貴司[FLYING KIDS]
◇BATTLE 80's ROCKESTRA:Dr.kyOn〈Key〉/小田原 豊〈Dr〉/TOKIE〈Bass〉/玉城宏志〈Guitar〉...and more
OPEN 16:00 / START 17:00
ADV. 5,250yen (+1DRINK) / DOOR 5,775yen (+1DRINK)
一般チケットは、ぴあ、ローソン、e+、CNプレイガイド、SOGO TOKYOにて5月8日(土)から発売。
TOTAL INFO. SOGO TOKYO:03-3405-9999
主催・企画・制作:NEXUS実行委員会/協力:音楽主義

NEXUS official website
http://www.musicism.jp/nexus/

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