ギター バックナンバー

山崎ハコ('09年12月号)

山崎ハコ

デビュー35周年を迎えた情念のシンガー・ソングライター、Asagaya / Loft Aに降臨!


 1975年10月、アルバム『飛・び・ま・す』でデビューしてから今年で35周年を迎えた山崎ハコがロフトに還ってくる。Asagaya / Loft Aが来年初頭から始動させる実力派ミュージシャンのプレミアム・ライヴ『VINTAGE A』のトップバッターが彼女なのだ。『飛びます』、『織江の唄』、『ヨコハマ』といった代表曲はもとより、『リンゴ追分』や『横浜ホンキートンク・ブルース』といった秀逸なカヴァーまでが収録されたデビュー35周年記念アルバム『未・発・表』の話題を中心に、これまで歩んできた長く曲がりくねった道程、シンガー・ソングライターとしての矜持、山崎ハコという表現者の特異性について余すところなく訊いた。このインタビューが『VINTAGE A』に向けての格好のサブテキストとなれば幸いである。(interview:椎名宗之)


不遇の時代を支えてくれた役者たち

──10月にデビュー35周年に突入しましたが、今の率直なお気持ちから聞かせて下さい。

ハコ:35年ってこんなに早いものなのかと。倍にしたら70年でしょう? 人の一生はもの凄く短いんだなと今急に思いましたけど。デビューして20年経ったくらいまでは、周りのことなんて何ひとつ知らない売れないアイドルみたいでした(笑)。それから所属事務所が立ち行かなくなって以降の10年くらいは下積み生活が一気に来た感じですね。それまではセールス的な浮き沈みがあっても、立場的にまずいとかはなかったんですよ。事務所さえあれば、ボロくても家があるようなものだから。それが、雨風を凌げる家を追い出されてのっぱらにひとりぽつんと立たされた。信念さえあれば、歌を唄い続けることはできると思うんですよ。でも、プロの歌手として唄い続けるための活動…つまりマネージャーがやっていた売り込みの仕事をやらないとプロとしては成立しないんですね。だから、裏方の仕事でも何から何まで全部自分でやるしかなかったんです。

──それはやはり、自分には歌しかないという覚悟があってのことですか。

ハコ:外から自分を見なかったからこういうことになったんだなと大反省をしたんですね。デビュー以来、まさに“籠の中の鳥”状態で外の情報を一切入れないようにして育てられたのは確かなんです。何故なら、すぐ籠の外に出たがるから(笑)。高校生でデビューしてますから純粋培養だし、ホントに何も知らなかったんですよ。親よりも長く一緒にいる事務所からすれば従順だし、操りやすかったんじゃないですかね。「自分たちの言うことを聞けばこの世界でずっと唄えるようにしてやる」という約束の下にデビューしましたから。そんな事務所がなくなって、自分が歌をやめると決意すれば山崎ハコという存在が日本の芸能界から消えてしまうわけですよ。でも、18歳の山崎初子が昨日まで存在しなかった山崎ハコを誕生させて、その決意の表れが『飛びます』という歌だったんです。“どんなに苦しくても、歌を唄う自分がいればきっと大丈夫”みたいな大層な歌でデビューしたのに、このまま無責任に消えていいの? 山崎ハコってその程度の歌手だったの? って思ったらもの凄く悔しくなったんですよ。

──でも、だからこそこんなところじゃ終われないと思った。

ハコ:役者さんたちが応援してくれたのも心強かったんです。「芝居で山崎ハコの歌を使うのがどれだけ重要なことか」、「一言もセリフがなくても、声が出ただけで泣いちゃうんだ」…そう言ってくれる小劇場の劇団の人たちが「ハコちゃんには唄ってくれなきゃ困る」っていろいろと助けてくれたんですよ。役者さんの店で唄わせてくれたり、ギター持ちをして送り迎えをしてくれたり、家もない状況だったからカギを渡して「いつでも泊まりに来て」と言ってくれたり…みんな無償で私のために動き回ってくれたんです。何が彼らをそこまで突き動かしているのかと言えば、それはハコの歌なんですよね。

今もなお唄う情熱は消えていない

──ご自身の歌によって助けられ、奮い立たされたわけですね。

ハコ:世間も知らずに真面目に唄ってきたことが自分では失敗だと思ったんですけど、脇目も振らずに純粋に唄ってきたことが大きな力になったんですね。事務所からは「君は商売にならない」と三行半を突き付けられたけど、役者さんたちは山崎ハコが貴重な存在なんだという一心でライヴハウスに連絡を取ってくれたり、駆けずり回ってくれたんですよ。その時に“山崎ハコって凄いんだ、みんなをこれだけ動かしちゃってるんだ”と初めて自分を客観視できたんですね。それもすべて、真摯に歌と向き合ってきたからこそなんですよ。自分の歌が今日もちゃんとしていたかどうかが常に大事で、息を抜いていい加減に唄ったことは35年間で一度もないんです。いつも磨り減るまで集中して唄う。山崎ハコって集中力の賜物なんですね。私、歌詞を見ると逆に集中して唄えなくなるんですよ。譜面台も広げないし、第一、そっちの世界に入ったら歌詞なんて見えなくなる。人の顔も余り見えないし、だからライヴハウスでも唄えたんじゃないかと思いますね。ホールから出発してますから、デビューして15年の間にライヴハウスは全国でたった5本しかやってなかったんです。その中にロフトや曼荼羅、屋根裏とかが入ってたんですよ。あとは全部ホールなんです。

──ライヴハウスからホールへとステップアップしていく通常のケースではないと。

ハコ:ライヴハウスはホールができなくなったら落ちぶれてやるものだと思ってましたね。今は全然違うことが判りましたけど。だから私、下積みを経験したことがなかったんですよ。でも、私は歌と向き合ってるだけだから、どこで唄おうと関係なかったんですね。私と歌との問題ですから。自分の歌に対しては常に誠実であり続けてきましたね。心から湧き上がってこないことを唄うのはとってもイヤなんです。歌詞を見ないで唄うのはそういう面もありますね。歌詞を見ないと唄えなくなっちゃったの? って思うし、歌は歌詞をなぞることではないですからね。その気持ちは35年間変わりません。

──音楽を生み出す表現者とそれを広める媒体、音楽を享受する聴き手の在り方も激変した35年だったと思いますが。

ハコ:お客さんと唄う側の間に立って音楽を広めていく人たちの情熱が稀薄になってきたのは感じますね。私がどんな状況に置かれても現役でいられるのは、今も情熱が消えてないからだと思う。情熱がそのままだから、歌もそのままでいられるんですよ。一般的に言って、デビュー前後の情熱と芸能界に揉まれてからの情熱は質が違うと思うんですけど、私の中の情熱は同じ勢いと色のままなんです。

──聴き手の歌に対する飢餓感みたいなものもだいぶ変わってきましたよね。

ハコ:全然違いますね。それも情熱の質の変化があると思います。私は今もよく人の芝居を観るんですけど、10代の頃からアンテナをビンビンに張って面白い音楽や芝居を探してましたからね。私がデビューした頃はみんなアンテナを張り巡らせて探してましたよね、新しい表現者を。今の10代の子たちも新しいものをキャッチしてると思うんだけど、私が10代だった頃は独自のものを探す上で隣りの人と手を組んだりはしなかった。群れないで突っ張ることにステイタスがありましたからね。当時、ステージで「今度は友達と来てね」と私が言っても、ハコの音楽は友達に教えたくないって人が多かったんです。そうすると、そこで止まっちゃうからお客さんが全然増えないわけですよ(笑)。そこはもうちょっと群れてくれないかと思いましたけど(笑)。

心の情景を唄うことで描写する

──ハコさんの音楽は暗くて、熱心に聴いてる人は変人だという妙な先入観を持たれる風潮もありましたよね。

ハコ:軽薄短小な80年代は完全にそんな感じでした。私は75年の10月にデビューしたので、いい時は4、5年の間だけだったんですよ(笑)。当時はまだ“ネクラ”って言葉が流行ってなかったから。79年に私が『オールナイトニッポン』のパーソナリティをやった時はまだ暗いことにステイタスがあったんですけどね。でも、昔、渡辺えりさんが「その暗さがいいんじゃないの!」って言ってくれたことがあるんですよ。そこではたと気づいたんですね。私が自分の歌を愛さなければ、ファンのほうがもっと肩身が狭くなるって。

──代表曲を今の歌声で録り直したデビュー35周年記念アルバム『未・発・表』を聴くと、35年間という歳月を経てもなお歌の鮮度が失われていないし、選ばれし言葉が時代に淘汰されずに今も激しく脈打ちながら生きているのを感じますね。

ハコ:私は表現者ですから、すべての歌詞が“いい言葉だな”と感じさせないといけない。それは常に思っています。ただ、私の場合は言葉よりも情景が先に浮かぶんです。頭に描いた絵を見たくて唄ってるんですよ。その絵を映写機に映し出すようにメロディや言葉があるんですね。集中しないとその絵が見えないし、真摯に向き合わざるを得ないんです。

──ハコさんの歌が映像喚起力に優れているのは、雨に濡れた情景を描いた『ヨコハマ』一曲を聴いてもよく判りますね。

ハコ:『ヨコハマ』も景色で唄ってますよね。唄ってる時は景色が見えるんですよ。唄ってる時しかその景色は見えない。

──しかも、唄い続けている限りはその絵が完成することはないんでしょうね。

ハコ:ないですね。私が思い描いた絵のままじゃなくてもいいんですよ。聴いた人が勝手に描いた絵でいいし、何かが伝わって見えたかどうかが大切なんですね。ステージと客席の間の上のほうに見えないスクリーンがあって、私は映写機になってそのスクリーンへ向けて唄う。そこに埃や光の粒子がこぼれて、それがお客さんの頭上に降り注いで何かを共有できたらいいなと思うんです。

──美空ひばりさんの『リンゴ追分』のカヴァーも、津軽平野にぽつんと突き出た岩木山を空っ風が吹き抜けて、リンゴの花びらが宙に舞う凍てついた北国の情景が目に浮かびます。

ハコ:『リンゴ追分』はひばりさんに聴いてもらって、ひばりさんも気づかなかった景色を見せたいと思って唄ってるところがありますね。セリフの部分は訛りまで忠実にやってるんですよ。最初は主人公の女の子に感情移入して唄っていて、スキャットの部分でブルースになると一本のリンゴの木に魂が乗り移って女の子を見てるわけですよ。それがまた歌に戻って、最後は木の人生をも見る。木は土に還ってまた新しい芽が出ると。そんな情景の移り変わりを北国の風みたいに唄いたくて、ずっとオクターヴを上げて唄おうと思ったんです。

──本作がコロムビアからのリリースというのも、ひばりさんとの不思議な縁を感じますね。

ハコ:それもあって、是非カヴァーしたいと思ったんですよ。カヴァーしたいとひばりプロダクションにお手紙を書いて、ひばりさんのご子息である加藤和也さんにも直接お会いしたんです。島倉千代子さんに楽曲提供をしていたので、以前から面識はあったんですけどね。私のカヴァーはセリフ以降をブルースにしたと和也さんに伝えたら、「『リンゴ追分』ってブルースですよね?」と仰ったんですよ。和也さんは若い頃にブルース・シンガーの大木トオルさんの付き人をしていたし、ブルースやフォークが大好きなんですよね。

──ということは、『リンゴ追分』の後に『横浜ホンキートンク・ブルース』が来るのはごく自然な流れなんですね。

ハコ:曲の並びを考えたのは全部私なんですよ。あと、ジャケットのデザインもね。デビュー・アルバムの『飛・び・ま・す』のジャケットを意識した感じにして。『飛・び・ま・す』の裏ジャケットは海を背にして私が睨んでる写真なんですけど、『未・発・表』の裏ジャケットも同じ葉山の海を背に撮った写真なんですよ。いつもライヴを撮ってくれているカメラマンにジャケットをお願いして、『飛・び・ま・す』のジャケットを見て構図を確認しながら撮ってもらったんです。ミュージシャンのコーディネートも私がやって、Charには自分から電話したんですよ。何から何まで私が手掛けた自信作なんです。

35年経って同じ砂浜に立てるのか

──Charさん、島村栄二さん、ミッチー長岡さん、エルトン永田さん、安田裕美さんが参加した『横浜ホンキートンク・ブルース』と『気分を変えて』のファンキーなセッションは本作における大きな聴き所のひとつですね。

ハコ:あのセッション、いいですよね。アルバムの宣伝文句で「古さを感じさせない」ってよく言うでしょう? でも、私の場合は「新しさを感じさせない」のが売り文句なんです(笑)。今回はジャケットにも写っている35年前のギルド・ギターを弾いてるんですけど、ジャックがないので拾いマイクじゃないと演奏できないんですよ。だからコンサートでもハウっちゃって音を出すのが難しいんだけど、スタジオなら上手くできると思って。

──過去に2作ほど代表曲を録り直したベスト・アルバムを発表されたこともあるし、本作でも『飛びます』はもとより『織江の唄』や『白い花』といった珠玉の名曲が新たに生まれ変わった形で収録されていますが、これはボブ・ディランのように今在る姿がベストという考えからなんですか。

ハコ:過去のベスト・アルバムに関してはレコード会社の意向もあったんですよ。今回は“こういうふうにしたい”という私の強い意向を安田さんに伝えてアレンジを固めました。とにかくもの凄い量の注文をしましたよ。それが安田さんの役目ですからね(笑)。

──公私ともにパートナーである安田さんだからこそ成し得た役目なんでしょうね(笑)。

ハコ:『織江の唄』も『白い花』も、基本的にオリジナル・ヴァージョンのアレンジを意識したんですよ。マスタリングの現場も自分で行って、エンジニアの方に当時の音源を聴いてもらったんです。「こういうふうに作りたいんですけど」って。昔の音源ってヴォーカルが大きいんですけど、そのまま大きくしてもらったんですよ。

──シンプルだけど温かみのある生音が今回の音作りのコンセプトだったんですか。

ハコ:『飛・び・ま・す』みたいに作りたいと思えば自ずとそうなりますよね。35年経って同じ砂浜に立てるのか、心もすべて出発点に立てるのかがポイントだったんです。『未・発・表』と言っても、過去に出した曲ばかりじゃないかと思われるかもしれないけど、自分の意志を貫いて自分の好きな音で録れたのはこのアルバムしかないんですよ。『リンゴ追分』もそうだし、『横浜ホンキートンク・ブルース』なんて25年以上前から唄ってるのに一度もレコーディングしたことがなかったんです。ライヴでしか聴けない歌だったんですよね。そういう歌はまだいっぱいあるんですけど、私は横浜からデビューしたし、『横浜ホンキートンク・ブルース』は今回是非入れておきたかったんです。

──『横浜ホンキートンク・ブルース』は松田優作さんや原田芳雄さんによる名演とはまた違った、ハコさんのブルース・フィーリングが存分に愉しめるカヴァーですよね。

ハコ:昔、原田芳雄さんが「いつかハコがこの曲を絶対に唄うよ」って言ってたんですよ。最近お会いした時に「やっぱりな」と言ってましたけど(笑)。

──ハコさんにとって横浜とはやはりホームグラウンドなんですよね。

ハコ:私の歌の出身地は横浜なんですよ。最近出来た歌は東京出身なんですけどね。

──『BEETLE』とかですか。

ハコ:そうです。東京にいると、たまに田舎へワープするように飛んでいきたいと思うことがあるけれど、都会で生きてる私の鎧なんてカブトムシ程度のものなんですよね。子供の頃に山へカブトムシを捕りに行った時、いつもそこに大分のばあちゃんとじいちゃんがいたことを思い出すんです。あと、幼稚園の頃からずっと飼っていたちっちゃい犬のこと。私はその犬とふたりだけで暮らしていて、先に横浜に住んでいた両親から「中学を卒業したらこっちへ来い」と言われていたんです。私は行きたくなかったんですけど、その犬がいきなり死んだんですよ。それで横浜へ行くことにしたんですね。“これは横浜へ行けって言ってるわけ?”って思いながら。その犬やじいちゃん、ばあちゃんといった私の人生で重要な人たちの写真が『未・発・表』のブックレットに掲載してあるんですよ。あと、高校のクラスメートがデビューするにあたって手編みのマフラーをくれたんですね。それをデビュー当時ずっと巻いてたんです。そのマフラーを巻いた、ボツになったポスター写真みたいなのも載ってます。

山崎ハコは一代で終わります

──『あなたの景色』で歌舞伎役者の中村梅雀さんがベースを弾いているのもトピックのひとつですね。

ハコ:私が命名した“松島永安梅”(しょうとうええあんばい)というユニットに梅雀さんが参加してるんですよ。“松”は松原正樹さん、“島”は島村栄二さん、“永”はエルトン永田さん、“安”は安田さん、“梅”が梅雀さんなんです。梅雀さんとは芝居で知り合ったんですね。私のことは知ってくれてましたが、芝居でギターを弾く安田さんのことは知らなかったみたいなんです。周りから「安田裕美って凄い人なんだよ」って聞いたらしくて、次の稽古には自分が中学の時に録ったデモ・テープを「是非聴いて下さい」って安田さんに渡してましたよ(笑)。全部ひとりで録った多重録音のテープで、ご本人はミュージシャンになりたかったそうなんですね。

──かつては『流れ酔い歌』や『心だけ愛して』といった深い情念が渦巻いた歌が多かったハコさんですが、本作で言えば『未来の花』や『会えない時でも』といった大きな愛で包み込んだ世界観の歌が本作では目を引きますね。

ハコ:確かに、今までそういう歌は少なかったですね。『未来の花』は割と昔の歌なんですけど、その2曲は意図的に入れたいと思ったんです。『未来の花』で唄ってることは私のポリシーでもあるんですよね。自分はもう生まれてこない、生まれ変わらないと決めてるんです。子供もいないし、山崎ハコは一代で終わります。思い残すことのないように歌を唄い続けたいんですよ。いつが最後になるか判らないし、明日になってもう唄えなくなっても悔いが残らないように、羽根をどれだけ抜いてでも真摯に唄い続けなければと思ってます。仮に最期のステージがロフトだったとして、「あのライヴは酷かったね」と言われたくないですから(笑)。『会えない時でも』は等身大の私ですね。動物の世界では弱肉強食が基本なんだろうけど、人間は動物と違って理性がある。殴り殺してやりたいと思うようなことがあっても、理性が克てばそんなことは絶対にしない。人の痛みを無視するところから戦争や殺人は起こる。だから、常に相手の立場になって考えればホントにいい社会になると思うんです。よくばあちゃんが言ってましたね。「人に迷惑を掛けてもいいよ。どうせ自分も同じ目に遭うんだから」って。

──まさに“情けは人の為ならず”ですね。

ハコ:そういうことですね。やっぱり、お天道様はちゃんと見てるんですよ。歌手として路頭に迷った時、歌い続けたいのか、そうじゃないかを自分に問い掛けたんです。その答えは“歌い続けたい”だった。だとしたら言い逃れは不要、一心不乱に唄うだけですよね。ハコの歌は暗くて悲しいからボロボロ泣いちゃう人も多いだろうけど、私は九州女だから暗さに留まらない這い上がろうとする意志みたいなものが歌の中にあると思うんです。だから、私の歌を聴いてハラハラ泣いた後に“さぁ、明日からまた頑張ろう!”って思ってくれるのが理想ですね。もうひとつ理想を言えば、親子でライヴに来て欲しいです。

──今後、ハコさんが歌を通じて伝えていきたいのはどんなことですか。

ハコ:人間の面白さですね。歌なら男にもなれるし、少女にも老女にもなれるし、いろんな人間を演じられる。それが凄く楽しいんですよ。役者でも演じられる範囲は限られるでしょう? 歌の中の登場人物がいっぱいいれば全部声を変えたりして、いろんな人間の面白さやおかしさを歌で表現してみたい。私、ひとりでロック・バンドをやれって言われてもできそうな気がするんですよ。私の頭の中にはドラムやら何やらいろんな楽器が鳴ってますし。阿佐ヶ谷ロフトAでのライヴも、アコースティックなロックをやりますよ。今はとにかく吹っ切れて潔いので、期待していて欲しいですね。ウジウジした歌を地団駄踏んででもウジウジ唄う、そんな潔くない潔さがありますから(笑)。



デビュー35周年記念アルバム
未・発・表

コロムビアミュージックエンタテインメント COCP-35820
3,000yen (tax in)
IN STORES NOW

★amazonで購入する
★iTunes Storeで購入する(PC ONLY) icon

Live info.

VINTAGE A Vol.1 〜山崎ハコ 阿佐ヶ谷ライヴ〜
出演:山崎ハコ with 安田裕美(G)
日時:2010年2月13日(土)
時間:開場 18:00 / 開演 19:00
会場:Asagaya / Loft A(03-5929-3445)
料金:前売¥4,000 / 当日¥4,500(共に飲食代別)
企画協力:ハーヴェストプランニング
*終演後、ニュー・アルバム『未・発・表』の販売&サイン会あり
*前売チケットはローソン、イープラスにて12月1日より発売

Asagaya / Loft A 音楽ライヴ・シリーズ企画『VINTAGE A』が始動!
 その昔、1970年代の中央線文化が華やかし頃、73年6月にライヴスポット“西荻窪ロフト”はオープンしました。広さはわずか15坪。翌74年、今度は隣の町に“荻窪ロフト”(35坪)をオープンさせます。ちょうど日本のサブカルチャー創成期と重なり、ライヴハウス“ロフト”は自然とこれらの一角を担うことになりました。80年に西荻窪店と荻窪店は幕を閉じましたが、この時期私たち“ロフト”は70年代の中央線文化に多くの足跡を残したと自負しています。
 その後“ロフト”は新宿、下北沢に居を移しましたが、ライヴハウス“ロフト”の原点に立ち返りたいと考え、再び中央線沿線で新たなライヴハウス“Asagaya / Loft A”を2007年に立ち上げました。もはや中央線発の音楽はその枠を飛び越え多様な変化を見せていますが、阿佐ヶ谷にもゆかりのミュージシャンが多数存在し、ジャズ喫茶やフォーク酒場も数多く存在します。地元との土着化を標榜する私たちは、そんな阿佐ヶ谷の仲間たちとまたここ“ライヴハウス”でゆったり聴かせる音楽を食事やお酒と共に楽しめるライヴ・イヴェント『VINTAGE A』(ヴィテージ エー)を2010年より始動していきます。今も唄い続ける素敵なアーティストたちの生のステージをこの阿佐ヶ谷でお届けしていきます。オープニングを飾る第1弾に登場して頂くのは“山崎ハコ”さんです!(Asagaya / Loft A店長:奥野テツオ)

posted by Rooftop at 12:00 | バックナンバー