
歩幅に宿る真実とその行方
本当が本当に本当なのか。自身の揺るぎない信念などと言うが、その信念とやらは果たして頑なに貫き通す価値があるものなのか。まともな世界があると言うが、そんな世界が本当に在るのだろうか。際限の際限まで自分自身を鋭く見据え、今日までの歩幅という身の来し方だけを心の拠り所として明日への一歩を踏み出すこと。イースタンユースの通算11枚目となるオリジナル・アルバム『歩幅と太陽』には、そんな不確かな心持ちのまま歩を進めるんだという確かな意志が作品全体に充ち満ちている。唯一の事実は、磨り減らしてきた踵と歩幅の距離だけ。その足取りに真実が宿り、その足取りだけが生きている証であるということ。コクとまろみがグッと増した有機的なアンサンブルの中で真っ直ぐに唄われるその歌は、いつにも増して剛直で、繊細で、ギラギラと燃え滾っていながら柔和な表情も見え隠れする。我々が幸運なのは、自身の歩幅だけでなく、他の何物にも似ていないイースタンユースの実直な歌をも心の拠り所にできることだ。誠心誠意、真心が込められた彼らの歌さえあれば、いつだって我々は一切合切太陽みたいに輝くことができるのである。(interview:椎名宗之)
本当ガ本当ニ本当カヨ?
──ありふれた日常や身近な事象が太陽みたいに輝くと唄われる『一切合切太陽みたいに輝く』が象徴的な楽曲だと思うんですが、明日に向かう微かな希望や願いが今回のアルバム全体に通底するトーンのように感じますね。
吉野 寿(エレキギター、ボイス):いや、希望には満ちてないんだけどね。どっちかっちゅうと絶望感のほうが強いから。
──希望に満ちていないからこそ希望を渇望する、といったニュアンスですか。
吉野:何て言うのかな、クソみたいなもんなんだよね、自分の人間性なんて。でも、自分で選んだ道だから終わらせるわけにはいかんのだよ。そんな度胸もないところがまたクソだし。それでもやっぱり、生きていかなきゃいけない。『一切合切太陽みたいに輝く』はそういうことを唄ってると思うんだけどね。
──アルバム・タイトルの『歩幅と太陽』は、『オオカミ少年』の歌詞の中に“ソノ足取リニ真実ガ宿ル”とあるように、揺るぎなく信じられるものの象徴なんでしょうか。
吉野:自分の足取りのぶんだけの人間だからね、ひとりひとりが。今ここに在る状況っていうのは、自分が選んで歩いてきた足取りと歩幅の距離って言うか、そのぶんだけの人間ってことだよね。そういうことを生きてる証として形に残したいんだね。ただ、本当のことを言いたいんだけど、果たして本当が本当に本当かよ? って思うんだよ。
──まさに『オオカミ少年』の歌詞にある通りですね。
吉野:誰かが言うことに対して“本当ガ本当ニ本当カヨ?”って思うこともあるけど、自分のことでもそう思う。自分が本当に信じていることは、果たして本当のことなのかな? ってね。嘘はいかんことだし、何事も正直に向き合うべきだと思うけど、嘘の世界みたいなものを打ち破るために嘘が必要な時もあるのかなとも思う。第一、正直って一体何なのか、怪しいと思うこともあるし。
──“本当のこと”を突き詰めようとすると、その本質がどんどん遠退いていくような感覚ってありますよね。
吉野:深く考えれば考えるほどにね。まぁ、本来は真っ直ぐ本当のことが一番素直でいいことだとは思うんだけど、本当のことだけじゃ本当のことは見えてこないと思う。うまく言えないけどさ。
──すでにライヴでも何度か披露されている『まともな世界』も、物事の本質を見極めんとする視点に立った歌ですね。“まともな世界があるという/誰と誰と誰がそこから来た?”という。
吉野:法律という制度以前の約束って言うか、人と人が関わり合って生きていく上での約束みたいなものから逸脱する人間がいるんだよ。社会的に許される、許されないに関わらずそういう人はいて、余り極端に逸脱した人は社会の約束によって殺されちゃうわけ。でも、法律や罪を犯したりしなくても社会のルールから逸脱した人は、社会から逸脱したまま社会の中で生きていかなきゃいけない。社会に背を向けたまま社会の一部になっていくというパラドックスの中で生きていかなきゃいけない。約束っていうのは決まり事だし、守らなくちゃいけないものだけど、世の中の多数決で決められたものが是になったり、非になったりする。でも、その時代によって是も非も変わるし、そこからハミ出す人間は必ずいる。生き続けると決めた以上は、自分の人生はどうにか自分のものにしなきゃいけないわけだよね。自分を掘り下げることによって自分と社会の関わり合い方みたいなものをはっきりさせて、はっきりさせることができれば闘い方が判ってくるんじゃないかなと俺は思うんだよ。
──吉野さんご自身は常にマジョリティに付和雷同することなく、社会を見据える立脚点は一貫してマイノリティの側ですよね。
吉野:そうだね。本当はね、迎合ができるのなら迎合したいくらい。何度も試したことがあるし、今でも憧れがある。俺は約束の中に身を置きたいよ、本当は。だけど、それはどうやら叶わんみたい。
──マジョリティは性に合わないですか。
吉野:性に合わんだけの問題じゃない感じ。さっぱりダメみたいだね。
判らんってことを唄うしかない
──今回はその『まともな世界』然り、『オオカミ少年』然り、自身を際限まで掘り下げた歌詞がいつになく多い気がしますが。
吉野:いや、まだまだ甘いね。全然ダメだと思う。判ってないと思うよ、何にも。でも、判ってなくても、今の時点で自分がこういう人間なんだったら、そう唄うべきだと思って歌を作ってるんだけど。判ってないことは自覚してる。けど、判ってないのに判ってるようなことを唄うことは俺にはできん。だから、判らんってことを唄うしかないよね。
──そんな心持ちの時に頼りになるのが、歩幅であったり、磨り減らす踵であったりするわけですね。
吉野:そうだね。それだけが事実だから。今現在というのは過去の事実の帰着点なわけで、いいとか悪いとかじゃなくて、事実がそこに在るだけなんだよ。事実を受け入れて生きていくしかないって言うか。この先変わっていくことだけはできるけど、やってきたことは変わらないし、変えられないからね。だから、変わっていくべきだと思う。だけど、事実は何ひとつ変わらない。
──レコーディングに入る前、歌詞を書くことが難儀だと仰っていましたよね。
吉野:ここ数年は全然ダメだね。なっとらんなぁ…って思うよ。詞や言葉がなっとらんと言うよりも、俺自体がなっとらんのだと思う。別に達観したいわけじゃないんだけど、何をどういうふうに歌詞にして、どういうつもりでその言葉と歌を結晶させていくかっていう根本的な立脚点みたいなところがずっとグラグラしてる。それはバンドがグラグラしてるってわけじゃなくて、バンドの組合構成員の俺が個人的にグラグラしてるだけなんだけど。言い換えれば、グラグラしてるってことが人間の本質であると言えないこともないし、「これでいいのだ!」と言ってしまいたい時もあるけど、そこで正当化してしまったら何も変われないんだよ。だから、事実を受け入れて進んでいかなきゃいけないわけ。
──歩を進める時に、空を見上げて太陽があれば気持ちが救われるというニュアンスがアルバム・タイトルには込められているんでしょうか。
吉野:事実ってことだね。太陽があるのは事実だから、味方でも敵でもない。俺たちは太陽を生かすことも殺すこともできるわけ。でも、言い換えると、太陽に生かされたり殺されたりするのは実は自分のほうで、自分の歩幅通りに生きてきたぶんの事実で生かされたり殺されたりするんじゃないかと思うんだけどね。
──outside yoshinoの作品を含めて、吉野さんの書く歌詞には“泣きたくなるほど晴れ渡った空”という言葉がよく出てきますよね。
吉野:晴天って本当に素晴らしいと思うんだよね。澄み切っていてキレイで。ただ、それを享受する資格が俺にはあるのか? と思う。恥ずかしいと言うか、失格みたいな感覚があるんだろうね。だから泣きたくなったり、消えてなくなりたくなったりするんだと思う。
──夕暮れとか夜が落ちてくる時間のほうがまだ居心地がいいですか。
吉野:うん。ちょっと曖昧な時間とか色彩とか、そういうもののほうが自分の濁った本質的な感覚みたいなものと合致しやすいって言うかさ。
──『一切合切太陽みたいに輝く』がダンダンダンダン、ダンダダンダダンというリズムで終わって、そのリズムに似たギター・フレーズで『いつだってそれは簡単な事じゃない』が始まる連なった感じとか、『デクノボーひとり旅ゆく』の冒頭で田森(篤哉)さんの試し叩きみたいなドラムから本編のイントロに入るところとか、サウンド面では意外と…と言ったら失礼ですが、趣向が凝らされていますよね。
吉野:足し算みたいに仕掛けを増やしていく方向性は意外と簡単なんだけど、それよりももっと3人の演奏が一体となって肉体性を帯びたものになってくれればなと思うんだよね。大仰に継ぎ足して長いものにするとかじゃなくて、会って話せば一発で判るもののほうがより人格が出るって言うか、曲やプレイが人格を持つような気がする。でも、そうすることはなかなか難しくてね。ようやく少しずつできるようになってきたのかなとは思うけど。
自分の器は思ってるほどデカくない
──ここ数作で3人のアンサンブルがより逞しく、よりしなやかに、よりコクを増してきているのを聴き手としては痛感しますが。
吉野:曲の元を作るのが俺だから、“この曲のニュアンスはバンドには合わねぇかな?”なんて思ったりすることも前はあったんだけど、ここ最近は“こういう曲はこのバンドではやれねぇだろう”っていう曲を提示したとしても、どんなアプローチの曲でも、この3人でやるとやっぱり自分たちらしいものになるんだなと思って。くっつけたり、削ぎ落としたり、固めたり、離したりしてるうちに、同じようなひとつの性格になっていくんだね。そのために今まで各々がプレイの面で努力してきたし、アプローチに迷いがなくなってきたって言うかさ。どんなアプローチでもやれるって感じ。“こりゃないだろう”とか思っても、意外とやれる。インドからやって来たカレーがカレーうどんになりました、みたいなさ(笑)。何でも鰹出汁や醤油で味をつけちゃえば和風になるみたいな、そんなことを信じてるところはあるね。
──outside yoshinoのレパートリーの中で『見るまえに跳べ』というカリプソっぽい楽曲があるじゃないですか。あのテイストが本作に収録された『影達は陽炎と躍る』の旋律にはありますよね。だから、イースタンユースと吉野さんのソロの楽曲の垣根が少しずつ薄れてきているのかなと思って。
吉野:そうだね。二宮(友和)君はもともとプレイのスキルがいっぱいあるし、田森も凄い上手になってきたから。まぁ、田森の場合は独特な上手さだけど(笑)。でも、それが彼らしくて、ちょっとびっくりするようなプレイをしてみたりするんだよね。最初はたどたどしくても、だんだんと自分のものにしていって、最終的にはガッチリと掴んでいると言うか。そういう信頼感がバンドに対してはあるね。
──“デクノボー”という言葉もようやくイースタンユースの楽曲に登場しましたね。『デクノボーさん』、『デクノボー危機一髪』とoutside yoshinoではお馴染みでしたけれど。
吉野:本当は違うタイトルだったんだけど、何かもういいやと思って。基本的にバンドとソロは分けて考えてるんだけどね。ソロはもっとパーソナルなものだし、バンドでの俺は1/3だから。歌詞と曲の骨組みを作ってるからかなり俺が前に出てくるような感じではあるけどね。特に歌詞は俺が作ってるから共通点はいっぱいあるけど、分けて考えてるね。
──メロディやサウンド的な部分で、バンドならどんな形でもドンと来い! というのは非常に頼もしいことですよね。
吉野:うん。ただ、バンドでどうやっても自分たちっぽくなるっていうのは信頼ではあるけど、言い換えれば諦めでもあるって感じ。もっと超えてもいいんじゃねぇか? って言うか。それはこれから挑戦していくべきことかもしれないし、楽しみなことでもあるし、困難なことでもあると思う。
──『オオカミ少年』は本作の中でも緩急のついたアンサンブルの妙と歌詞の秀逸さがとりわけ際立った楽曲だと思うんですが、イソップ寓話の『嘘をつく子供』がモチーフとなっていますね。
吉野:ヒツジ飼いの少年が「オオカミが出た!」といつも嘘ばかりついていて、本当にオオカミが来た時に誰も信じてくれなくて、ヒツジが全部オオカミに食べられてしまうっていう話だね。本当らしい顔をした嘘っていっぱいあるんだよ。みんなそれを「本当だ」って言うわけ。でも、それが本当なんだったら、嘘のほうが本当に近いし、自分自身のことも本当に判っているのかな? って言うか。自分が思っている自分を本当だと思っているけど、果たして本当なのかな? っていう。自分のことは意外と把握してなくて、自分の器っていうのは自分が思ってるほどデカくないし、いつでも何かが溢れてるんだよね。簡単なんだよ、「これが本当だ」って言うことは。「これが真実だ」、「嘘じゃない」、「嘘つくな」、まさにその通り。その通りだと思う。だけど、それは一体本当にできることなのか? 俺たちは本当にそれと向き合って挑戦しているのか? って言うか。まるでバーゲン・セールみたいに“本当”だの“愛”だの“真実”だの言うけどさ、それ自体が嘘である可能性があるよね。「これが本当です」、「これが真実です」という名の嘘なのかもしれないし、嘘という名の真実かもしれない。それを打ち破るためなら嘘を使ってもいいと俺は思う。そういうことを疑わない人のほうが怖い。
事実を乗り越えて再生するべき
──思考停止が一番怖いことですよね。“動物みたいに飼い馴らされて”(『脱走兵の歌』)しまうわけですから。
吉野:本当は飼い馴らされたほうがラクだけどね。考えなくていいから。自動的に運ばれて、最後は骨になるだけ。だけど、そういうのはダメみたい、俺は。
──だからこそ、“傍目に見れば全く無惨な姿でも/冗談じゃねぇぞ/勝負はまだまだこれからだ”と唄われる『明日を撃て』の世界観に辿り着くんじゃないでしょうか。“百万回目の再生”上等、と言うか。
吉野:再生できればいいんだけどね。再生するべきだとは思う。百万回再生するべきだと思うね。でも、再生できるかどうかは判らないよね。自分でもう一回やり直すしかないから。だから、願いって言うか、そういう歌だと思うけど。
──『明日を撃て』の“メソメソすんな/泣いて世界が変わるかよ”という冒頭の歌詞に僕らは励まされたり、気持ちを鼓舞されたりするんですが、吉野さんは聴き手に対して無責任に「頑張れ」なんて絶対に唄わないじゃないですか。だからこの歌詞も、自身から自身に対して発破を掛ける意味合いなんでしょうね。
吉野:事実なんだよ、すべては。泣いて気が済むなら泣いてもいいけど、泣いたって事実は変わらないからね。事実を変えたいと思ったら、泣く前にやることがあるし。メソメソすんのは酒に酔っ払うようなもんで、もしくはどうしようもなく涙が出ちゃうだけで、それは仕方のないことだけど、本当に何かを変えようと思ったら、メソメソしてたら何も変わらないんだよ。事実は泣いても変わってくれないから。泣いたぶんだけ事実が変わってくれるんだったら今でも泣くけど、変わってくれないんだよ。事実は事実だし、それと向き合ってやっていくしかない。そしてそれを乗り越えて、再生するしかない。
──パソコンやゲームのスイッチみたいに、気軽に再起動できないのが人間ですしね。
吉野:できんね。やってきたことは一個も消せんから。米粒ひとつぶんも消せない。今在る自分はその結果なんだし。だから、どうしようもなく涙が出る以外はメソメソしてる場合じゃないわけ。
──『歩く速度の風景』にある“忘れたって良いんだぜ/捨てたって良いんだぜ”という歌詞は、過去の事実を乗り越えるために時にはそういったことも必要ということですか。
吉野:うん。忘れても、捨てても、いいんだと思うよ。自分が忘れてるってことと事実が帳消しになるってことは別だから。忘れたってまた必ず事実は現れてくるし、捨てたってまた必ず事実はくっついてくる。だけど、過去の帰着点である現在から先に一歩踏み出す時に、忘れる必要があるなら忘れればいいんだと思う。誰に何と言われようとも。捨てる必要があるなら捨てればいい。捨てたからってなくなったわけじゃないし、それは絶対そのうち思い知らされるけど、思い知らされるからって一歩も踏み出さないのはその場所で止まってしまうことになるから、それじゃ変われないんだよ。やっぱり、進んでいかないと。進んでないつもりでも時間は進んでってるし、進まなければ自分が自分の人生の中で置いてけぼりになるだけ。物質的な時間の流れと自分の人生の時間の流れを合致させて進んでいかなきゃいけない。自分の時間っていうのは自分だけのもんで、世界で唯一の特別なもんだから、それを世界の時間とコミットしなきゃ先に進んでいけないんだよ。その努力は必要だと思う。だから、そのために忘れる必要があるなら忘れてもいいと思う。ただ忘れちゃいけないのは、自分が忘れても、捨てても、事実が消えることにはならんということ。事実は事あるごとに目の前に顕現するわけだから、それと向き合うしかない。
──生きることを選んだ以上、事実と対峙するのは回避できることじゃありませんしね。
吉野:選んで生まれたわけじゃないけどね。だけど、しょうがないよ。気がついたら生きてたから。あとは死ぬだけでしょう? 死だけが万人に平等だし、今見えているどいつもこいつも必ず死ぬからね。そこまでの時間をどう使うか、どういうふうに感じて自分のものにするかっていうのが大事なんだよ。 生き延びるために逃げたっていい
──死ぬまでの限られた時間を太く濃く生きたいからこそ、自身を際限まで掘り下げて真摯に向き合うとも言えませんか。
吉野:自分の人生を自分のもんにはしたいよね。ただ、そんなに格好いいもんじゃない。自分では良かれと思って、少しでもマシなほうに行きたいと思ってどうにかこうにか生きているけど。
──“イチ抜けて逃げるぜ/何処までも逃げるぜ”と唄われる『脱走兵の歌』は、有事が起こった時には一目散に逃げると以前から公言していた吉野さんの主張を形にした歌ですね。
吉野:誰かに「死ね!」と言われて、納得できる理由って何だ? っていうことだよね。“もう死んでもいいや”と思えば死ぬのもひとつの選択だけど、「国の一大事だから」なんて言われても、“国が何だ!?”と俺は思う。みんなの国じゃないか、死んだら国も世界も全部なくなるじゃないか、って。人が生きてるからこそ国や世界があるのに、死んだら何も残らない。逃げるべきだと思うよ。「困難から逃げるな!」とか言うのは正しいことだと思うけど、逃げないことによって追い詰められて、死んでしまう人だっていっぱいいる。「逃げたら卑怯だ」って無責任なことをみんな言うけどさ。生き延びるために逃げる必要があるんなら、何と言われようと逃げるべきだと思う。「一度逃げたヤツは一生逃げ回ることになるんだぞ」なんて言うけど、じゃあ一生逃げまくればいいと思う。それが自分の人生を自分のもんにして、自分らしく生きてくためなら、逃げる権利はある。だから、“逃げる”っていうキーワードだけで「卑怯だ」とか「卑劣だ」とかのイメージを抱くこととは対極でありたいと思うね。
──“逃げる”=“卑怯”というのも、“本当ガ本当ニ本当カヨ?”と言うか。
吉野:逃げることが卑怯な場面もあるとは思う。ひとつの言葉にはいろんな意味があるからね。たとえば、本当にやんなきゃいけないことがあって、それを誰かに押しつけて逃げるのは卑怯だよね。それは自分の安楽のために人を犠牲にして逃げるってことだから。だけど、「戦争になった時は誰かが死ななきゃいけないんだぞ」なんて言われても、“何で死ななきゃいかんのか!?”って思うよ。どうして死ななきゃいけないのか納得できないのに、勝手に戦争なんて始めてふざけんじゃねぇよ、って思うよね。俺は人を殺したくないし、死にたくもない。と思ったら、逃げていいんだと。“名誉の戦死”なんて言うけど、そんな名誉も勲章も俺は要らない。
──「国があって俺たちがいるんじゃない、俺たちがいるから国があるんだ」と吉野さんは常日頃仰っていますしね。
吉野:そう。人はひとりじゃ生きられないから、みんなで助け合うために共同体というものが必要で、その一番判りやすい目安が国なんだと思う。どうすれば人がより良く生きられるのかをみんなで少しずつ話し合って、ゴミ出しの日みたいに取り決めをして、みんながちょっとでもいいほうに行けるように考えていこうじゃないかっていうのが国の姿であって、喧嘩するために団結しているわけじゃない。だから、ヤバくなったら逃げ回ればいいんだと思う。そういうことに付き合うのはウンザリなんだよ。
──『脱走兵の歌』には歌の途中で「ワン、ツー、スリー、フォー」という吉野さんの掛け声が入っていて、ライヴっぽい感じもありますね。
吉野:もともとの曲の形は3人で「せーの!」でやってるものだし、バンド本来の形は顔を見合わせて「ワン、ツー、スリー、フォー」でやるわけだからね。音源はそれを整理して、聴きやすいように作ってる。ライヴ感もあるけど、再生に耐え得る水準っていうのを大事にしてレコーディングには臨んでるね。
──ラッパの音が効果的に歌を盛り立てているのも印象的ですね。『静寂が燃える』での三沢またろうさんによるパーカッション、『矯正視力〇・六』(アルバム・ヴァージョン)での小谷美紗子さんによるピアノなど、過去にも何度か3人以外の音を採り入れた曲がありましたけど、ラッパは初めてですよね。
吉野:トランペットはなかったね。脱走兵をテーマにした曲だから、ラッパを入れるのがいいかなとパッと思いついてね。
人がいるからこそ孤独なんだ
──『角を曲がれば人々の』はアルバムの最後を飾るに相応しい曲だと思うんです。“角を曲がれば人々の/いつも通りの靴の音/街の外れの分かれ道/いつしか風の音ばかり”という歌詞にある通り、最後は個々人の“靴の音”という“歩幅”を連想させる言葉も出てきますし。
吉野:物語の最後を締め括る曲として作った歌だね。靴の音や風の音が聴こえる中で実際に生きていて、それをそのまま描写していると言うか。人の中にいたつもりが、気づいたら周りには誰もいなかった、みたいな感じ。ひとつ角を曲がれば風の音だけ、っていうさ。孤独というのは深い山奥とかにあるんじゃなくて、人の中にあるんだよ、きっと。だから、必然的にそういう歌になるんだと思う。
──街の煌びやかなネオンや雑踏の中にこそ孤独を垣間見る瞬間ってありますよね。
吉野:そうだね。人かいるから孤独なんだよ。人が全くいない所にいたら、案外孤独じゃないと思う。
──『角を曲がれば人々の』は本作の収録曲の中でも特に田森さんのドラムと二宮さんのベースが歌の世界観を補完していると言うか、雑踏の中をゆっくりと、しっかりと歩いていく情景が目に浮かびますね。
吉野:田森は独特の進化を毎回するね。録音すると細かい部分まではっきり判るから、腕が上がってるんだなと思う。あいつは音楽を余り聴かないはずなんだけど、それが面白いアプローチに繋がっているのかもしれない。自分の気持ちの中から出てくる想像の産物って言うか、音楽以外のものからインスパイアされている何かがプレイに反映している気がする。それが一般的な巧さとは違った独特な巧さに繋がるんじゃないかな。あいつの性格もよく出てるし、あの独特の進化は実は凄いことだと思ってる。二宮君ともたまにそんな話をするしね。まぁ、本人には直接言わないけど(笑)。
──二宮さんのプレイも作品を追うごとに円熟味を増しているように思えますが。
吉野:二宮君のプレイには全然追いつけんね。凄く巧いし、巧いだけじゃない。色っぽくて粘りがあって、凄く人間くさいプレイをするから。きっと、余り無機的なことができないんだと思う。前にそんなことを言ってたことがあるね。80年代のニュー・ウェイヴみたいにピックで固い音をペコンペコンと弾いてみたいけど、なかなか巧くいかないって。やっぱり、その人となりがそのままプレイに出るんだろうね。
──ご自身のギター・プレイに関してはどう感じていますか。
吉野:ダメだね。全くのポンコツだよ。
──でも、まるで一筆書きのような武骨さや勢いが本作でグッと増した印象を受けますけど。
吉野:大事なものって隙間にあるんだなってことは前から判ってたんだよね。音の隙間にあるんだよ、大事なものは。埋めるのは簡単だし、隙間を作らなきゃならない。でも、スッカスカだからいいってわけでもなくて、隙間を感じさせるぶっとさと言うか、ビッチビチに埋まってるけどどこか隙間を感じさせる空虚さみたいなものが大事なんだと思ってる。それが巧くできてるかどうかは判らないけど。
──若い時分だと隙間を見せることにためらいがあるでしょうし、そこは年の功なんでしょうか。
吉野:ギンギンに隙間を巧みに使う若い人はいっぱいいるんじゃないかな。俺はただ、ビッチビチに埋めるのは安直だと思うし、それは誰でもできることだと思う。あんたじゃなきゃできないことかね、それは? って思うね。やっぱり、自分たちにしかできないことをやらなきゃ、音楽をやってる意味がまるでないからさ。
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羨んでもひがんでも誰にもなれない
──8年前の今と同じ時期に発表した『感受性応答セヨ』はギラギラした夏を意識したアルバムでしたが、本作はそれに比べると表層的なギラギラばかりではない、内に秘めたギラギラも感じさせる深淵さがありますよね。
吉野:いや、今回もギラギラした夏みたいな感じにしようと思ったんだけど、ただ単純に歳を取ったんだろうね(笑)。
──いい塩梅にアクが取れた感じですか。
吉野:アクは逆に強くなった気がするけどね。ただ、歳を取ればものの見方や深度も自ずと変わるし、あの頃とは違うよね。いいか悪いかは別として。あれからたくさんのものを失ったし、失ったがゆえに得たものもたくさんあると思うし。失わなきゃ判らないことのほうが多いんだよ。だから、前に進んできた自負はあるんだよね。俺たちはそれでいいと思ってるけど、社会的にいいかどうかは判らない。それは社会が判断することだから。でも、俺たちには進んできた自負があるよ。
──たとえば、『影達は陽炎と躍る』では3人のアンサンブルだけで真夏のアスファルトに蜃気楼がめらめらと揺らぐ情景を巧みに描写しているじゃないですか。あの緻密で奥深い演奏力に進歩の跡が見て取れると思うんです。
吉野:あの曲は東京の夏の感じだね。ヒートアイランドって言うか、室外機の熱が籠もってる感じ。季節としての暑さじゃなく、人工的な熱がめらめら燃え上がってるみたいなね。その中で生きてる感じって言うか。
──情景描写の巧みさは一貫していると思うんですが、そのコクとまろみが増したのは、より飾らず気取らず表現と対峙しているからこそなんでしょうか。
吉野:どうなんだろうね。昔も飾っても気取ってもいなかったんだけどね。
──いよいよ腹が括れてきたと言うか。
吉野:腹も昔から括ってるんだけどね。要するに、こういうふうに生きてきたってことだね。一歩ずつ生きてきて、それがこういう結果になっているだけって言うかさ。
──作品を発表する度にその時々のドキュメントを具象化する姿勢は不変ですね。
吉野:そこを大事に考えてるからね。こういうのが売れてるし、こういう感覚を採り入れたほうが受けるだろうってことも考えようと思えば考えられると思うけど、それは俺のやりたかったことじゃない。本当かな? と思いながら本当だと思えること、本当だと思いたいことを形にして、自分の生きる実感みたいなものに変えていく。それを他者の視線で共鳴できる人もいるし、できない人もいるっていうのが表現の在るべき姿だと俺は思う。そこは覚悟を決めるしかない。俺くらいの才能じゃ受けを狙ったって安直なものしかできないし、結局は受けないだろうね。やっぱり、全部で勝負しないと人の前に出せるものなんて作れないんだよ。ギリギリの合格ラインみたいなさ。このアルバムが合格してるかどうかはちょっと微妙だけど、それだけのものは小手先じゃ作れないんだと思う。これくらいの才能じゃ無理だね。メッチャクチャ才能があったら何でもできるのかもしれないけど、俺にはない。だから、こうせざるを得ない。まぁ、自分がいいと思うかどうかは別として、みんながいいと思える曲を職業的にバンバン作れるっていうのは憧れるけどね。でも、ダメみたい。俺にはできないみたい。
──そうやって七転八倒しながら紡ぎ出された歌だからこそ、イースタンユースの音楽はいつも僕らの心を激しく揺さぶって止まないんだと思いますが、発表される作品はその時点での最高傑作でありながら通過点でもあることを個人的に絶えず感じるんですよ。
吉野:本当は大傑作を作りたいんだけどね。自分では毎回大傑作だとは思ってるけど、そうは問屋が卸さんのだよ。やればやるほど自分の至らなさが判ってくるし、逃げ出したくなるよね。でも、しょうがない。羨んだって、ひがんだって、俺は他の誰にもなれないから。だから、それでいいんだと思ってるよ。

歩幅と太陽
01. 一切合切太陽みたいに輝く
02. いつだってそれは簡単な事じゃない
03. まともな世界
04. 明日を撃て
05. 歩く速度の風景
06. デクノボーひとり旅ゆく
07. オオカミ少年
08. 影達は陽炎と躍る
09. 脱走兵の歌
10. 角を曲がれば人々の
VAP/裸足の音楽社 VPCC-81634
3,000yen (tax in)
2009.8.05 IN STORES

配信限定・先行シングル
一切合切太陽みたいに輝く
●レコチョク、VAPモバイル(http://m.vap.jp/ey/)他にて着ムービー、ビデオ・クリップ配信中
●iTunesにてビデオ・クリップ・フル配信中
Live info.
極東最前線/巡業〜一切合切太陽みたいに輝く〜
9月3日(木)千葉 LOOK
9月4日(金)さいたま新都心 HEAVEN'S ROCK
9月6日(日)横浜 F.A.D
9月10日(木)新潟 CLUB JUNK BOX mini
9月12日(土)金沢 vanvanV4
9月13日(日)京都 磔磔
9月15日(火)清水 JAMJAMJAM
10月2日(金)広島 ナミキジャンクション
10月3日(土)福岡 DRUM Be-1
10月5日(月)岡山 ペパーランド
10月7日(水)米子 ベリエ
10月9日(金)心斎橋 クラブクアトロ
10月10日(土)名古屋 クラブクアトロ
10月15日(木)宇都宮 HEAVEN'S ROCK
10月16日(金)仙台 CLUB JUNK BOX
10月18日(日)弘前 Mag Net
10月20日(火)札幌 cube garden
10月23日(金)渋谷 O-EAST
お問合せ:SMASH 03-3444-6751
ROCK IN JAPAN FES. 2009
8月1日(土)国営ひたち海浜公園
NO MARK vol.20〜UNIT 5th Anniversary Special〜
8月4日(火)代官山UNIT[with:The Birthday / kamomekamome]
RISING SUN ROCK FESTIVAL 2009 in EZO
8月14日(金)・15日(土)石狩湾新港樽川ふ頭横野外特設ステージ
4th 木曽鼓動2009 ROCK IN CAMP FESTIVAL
9月26日(土)・27日(日)長野県木曽郡木曽町 キャンピングフィールド木曽古道
裸足の音楽社 official website
http://www.hadashino-ongakusha.jp/