岸川均と松田優作というふたりの恩人と“表現者”としての矜持
かつて『Weekly オリコン The Ichiban』誌上で連載されていたスマイリー原島の対談企画『SMILEY'S TALK』が装いも新たに本誌にて『SMILEY'S TALK JAM』として復活! 記念すべき再始動第1弾のゲストは、俳優/ミュージシャンとして精力的な活動を続けている“表現者”石橋 凌。彼を表現の道へといざなったふたりの恩人──岸川均と松田優作に対して今なお抱く深い憧憬と感謝の念、没後20年の節目として行なわれる『松田優作“SOUL RED LIVE”』への参加、そして常に疾走を続ける“表現者”のこれからについて。盟友関係にある両者だからこそ語り合える秘蔵エピソードの数々を心行くまでご堪能下さい。
岸川均との出会いは最初の必然だった
原島:『MW-ムウ-』の大ヒットおめでとうございます。手応えは如何ですか。
石橋:プロモーションを僕が担うことになって、単身で全国を回ったんですよ。玉木(宏)君も山田(孝之)君もいなかったんですけど、どこも良い反響でね。
原島:凌さんの今回の役どころは裏の主役みたいなものですからね。映画を見たRooftopの編集長は「まるで凌'sムービーみたいだ」と言ってましたが、確かに全編出ずっぱりですよね。
石橋:全編走っているから露出が多いように取られるかもしれないですけど、なかなか楽しかったですよ。原作の手塚治虫先生とも一度だけお会いしたことがあるんです。二十数年前に『ア・ホーマンス』でキネマ旬報の新人賞をもらった時にね。授賞式の会場に行って、エレベーターの中で遭遇したんですよ。この人があの『鉄腕アトム』を生んだんだ…って、それはもう感動でした。ご多分に漏れず、その時もベレー帽を被っていまして。「どうもはじめまして、石橋です」って挨拶しながら、「そのベレー帽ください」って喉まで出かかっていたんですけどね(笑)。
原島:ベレー帽を取った瞬間に誰だか識別できなくなりますよ(笑)。
石橋:あと僕、赤塚不二夫先生にもお会いしたことがあるんですよ。まだ四ッ谷にあった頃のホワイトへ行ったら、赤塚先生とたこ八郎さんがいらっしゃって。たこちゃんは先生の横で寝ていたから先生とずっと話していたんですけど、突然ムクッとたこちゃんが起きて、目の前にあった空のグラスに焼酎をドボドボ6、7割入れて、そこに醤油をダーッと入れて、割り箸で掻き回して一気。そしてまた横になって寝た(笑)。
原島:焼酎で割ってはいるけど、危険度は逆に増してますから(笑)。そんなエピソードも含めて、人の出会いとは不思議なものですよね。
石橋:僕自身、今までいろんな人たちと出会い、助けられてきましたね。「すべて必然で回っているんだ。小さなことでもすべてに意味がある」と僕の恩人のひとりである松田優作さんはいつも言っていましたけど、九州朝日放送(KBC)のディレクターだった岸川均さんとの出会いが僕にとって最初の必然だったんです。僕がプロ・ミュージシャンとしてデビューできたのは、すべて岸川さんのお陰なんですよ。
原島:岸川さんの存在がなければ、今日に至るまでの轍は全くないわけですね。
石橋:僕は高校の音楽研究同好会で先輩と一緒にバンドを組んで、高校2年の時からプロへの登竜門である照和(福岡市の天神にあるライヴ喫茶)に出始めたんですよ。平日からスタートして、お客さんがじわじわと増え始めて土日のステージをやれるようになって。それと、KBCというラジオ局でやっていた『歌え若者』という番組があったんです。アマチュア・バンドを生の番組で演奏させるという“イカ天”のラジオ版みたいな公開収録番組で、そのディレクターが岸川さんだった。岸川さんの番組や、岸川さんと接してチャンスを得たミュージシャン…特に福岡出身のミュージシャンは数多くいると思いますけど、僕もご多分に漏れずそのひとりなんです。
原島:当時の岸川さんは30代半ばですかね。凌さんが16、7歳の頃。岸川さんは凌さんの資質を見抜いてサポートしようと思ったわけですね。
石橋:事あるごとに福岡を始め九州のイヴェントに誘ってくれましたね。『精霊流し』でヒットしたグレープの前座を久留米でやったこともあるし。とても厳しい方で、ましてやルックスもパンチが軽く掛かっている上に縦縞のスーツだったから、凄味があったんですよ。
ARBの行く手に立ちはだかる“壁”
原島:メガネを取った横山やすしみたいな感じでしたよね(笑)。高校を卒業した後はプロ・デビューするチャンスを窺っていたんですよね。
石橋:バンドを続けながらいろんなアルバイトをしていました。ビルの窓拭き、デパートの中元・歳暮の配送、博多の築港で魚の荷卸し。最後に皿洗い募集のチラシを見て入ったのが本格的なイタリアン・レストランで、17歳から19歳まで働いていたんですけど、実はその間に2回ほど東京からお呼びが掛かったんです。でも、それはひとりで来いという話で、僕はあくまでバンドとして世に出たかったので体良くお断りしたら、その後はパッタリと連絡が来なくなった。イタリアン・レストランのマスターからも「石橋君、もう音楽は諦めなさい」と言われて、その頃は自分でも料理を作る側に回っていたから、このまま料理人として生きるのもいいかなと思ったんですよ。
原島:料理もまたクリエイティヴな世界ですからね。しかも、当時はまだイタリア料理も珍しかった頃だからやり甲斐も感じていたでしょう?
石橋:感じてた。だから19歳になって、もう音楽は諦めようと思っていました。でも、そこで運命の分かれ道ですよ。店で確かスパゲッティーを作っていた時に岸川さんから電話を貰ったんです。「元気にしてるか? 実は今、東京でARBっていうバンドが出来つつあるんだけど、オーディションをやってもヴォーカルが決まらないらしいよ。お前どうだい?」って。僕の中ではこれが最後のチャンスだと思った。で、マスターにこういう話がありますと伝えたら快く送り出してくれて、東京に行ってオーディションを受けて、それに受かったわけですよ。19歳の終わりからARBに在籍して、そこから僕の“表現者”としてのキャリアが始まるんです。
原島:そこでマスターが「行くな」と言ったら今頃イタリアンの巨匠になっていたかもしれないし、人の巡り合わせとはつくづく不思議なものですね。ARBがデビューした後も、岸川さんはすべて自腹でARBのライヴに来ていたのが凄いですよね。
石橋:同じ日に違うライヴと重なっても、必ずチケットを買って見に来て下さいましたね。僕は母校の恩師と対面するような気分で岸川さんとお会いしていました。初めてピアスを開けてお会いした時なんて、いくら挨拶をしても僕の目を見ようとしなくて、僕の耳に視線が行っているのが判りましたからね(笑)。あと、サウナに行ってちょっと遅れて待ち合わせ場所に行ったら、ジーッと僕の顔を見ながら「お前、最近顔も名前も売れてきたんだから余り変な所へ行くなよ」って言われたこともあります。ホントにサウナだっていうのに(笑)。
原島:違う風呂と勘違いしたわけだ(笑)。岸川さんはホント、絵に描いたような頑固オヤジでしたよね。
石橋:ARBで全国を回って、各都市にいる有名なディレクターの方々とお会いしましたけど、あそこまで音楽に対して無償の愛情を捧げた人はいないと思います。あれだけの熱情を感じた人は他にいなかったですよ。
原島:メディアの中枢にいながら、メディアに依存することなく自分の手でできることをやるという、マスでありながらもパーソナルな部分で音楽と人に向き合っていた方でしたよね。
石橋:あと、交友範囲が凄く広かったですね。当時の福岡にはサンハウスを始めとするロック、カントリー、ジャグ・バンド、プログレ、フォーク…といろんなジャンルがあったけど、ありとあらゆるミュージシャンと繋がりのあった方でしたから。
原島:エイジレスでジャンルレスな方だったんですね。岸川さんの懐の広さや無償の愛には比較すべきものがないし、ホントに唯一無二な人だったと思います。今日は凌さんにとってもうひとりの唯一無二な人のことも伺いたいんですよ。凌さんを俳優の世界へと導いた松田優作さんなんですが、早いもので今年で20回忌を迎えるんですね。
石橋:優作さんとは、ARBで壁にぶち当たっていたからこそ出会えたんです。岸川さんのお陰でプロのミュージシャンになれて、大きい会社からデビューして、結果1年半で大きい会社を飛び出して。新宿ロフトを中心に日本全国のライヴハウスをワンボックスカーで回って、本当の意味で自分たちのやりたいことができている実感があった。ライヴのキャパシティも小ホール、中ホールへと移行して、10年掛けて武道館まで行けた。それまでいくつもの壁を自分たちの力で乗り越えてきたんだけど、デビューして10年近くなった頃に“自分たちもここまでか…”と感じた瞬間があったんです。今度の壁は厚くて高くて、これはもうどうしようもないと。
真のアーティスト、松田優作
原島:その壁というのは、インディペンデントでできる限界みたいなものですか。壁を乗り越えるには違う後押しが必要だったと言うか。
石橋:後押しが必要と言うよりも、もう為す術がなかった。例えば僕たちがアマチュアの頃、60年代から70年代には日本にも本物のロック・バンドがいると思っていたんです。九州の博多にはサンハウス、大阪にはサウス・トゥー・サウス、憂歌団、ウエスト・ロード・ブルース・バンド。名古屋にはセンチメンタル・シティ・ロマンス、金沢にはめんたんぴん。東京には外道や村八分とかね。そんな本物志向のバンドの背中を見つめながら僕たちも悪戦苦闘したけど、その結果、やっぱり中央で成就しなかったという感があった。歴然と体制が大きい芸能界とは違う所だったと思うけど、いわゆる文化の中で切り崩していく術が自分たちにはもうないのかなと。やることはやってきたけど、それ以上何をすればいいか判らなかった。だからこそ、音楽自体をやめようと思うほど落ち込んだんですよ。そんな折に、元キャロルでダウン・タウン・ブギウギ・バンドの初代のドラマーだった相原誠さんから電話があったんです。「どうしてる?」って訊かれたから、「家で悶々としてます」って答えて。
原島:それ、ちょっとした引き籠もりですよね。
石橋:うん。四面楚歌みたいな感じだった。で、相原さんと憂さ晴らしに呑みに行くことにして、呑みに行く前に新宿のドゥ・スポーツっていうアスレチック・クラブで汗を流そうってことになって。そこのプールに行ったらたまたま優作さんがお見えになっていて、プールの中で相原さんが優作さんに僕を紹介してくれたんですよ。
原島:出会いがプールっていうのも意外性のある話ですね(笑)。てっきりホワイトとかゴールデン街の映画関係者が集まるバーとかだと思ってましたけど。
石橋:その時は挨拶だけして、その後に原田芳雄さんのお宅で毎年やっている年始会に行った時にまた優作さんとお会いしたんですよ。その時、これも直感なんだけど、“この人しかいない”と思ったんですよね、悶々としているものをぶつけられる人は。僕は大の優作さんフリークっていうわけでもなかったんだけど、ただ直感的に“この人しかいない”と思って、気づいたら目の前で正座して「この前お会いしました、ARBというバンドをやっている石橋です」と挨拶して、実はこういう問題を抱えていますって言ったら、いついつに家へ来なさいって言って下さって。それで、優作さんの家に資料、レコード、ビデオ、本を持っていって相談に乗ってもらったんですよ。
原島:何が凌さんを優作さんへと向かわせたんでしょうね。
石橋:やっぱり、その存在感の大きさかな。僕たちは日本の芸能界と距離を置いていたし、芸能人にも興味がなかったんだけど、優作さんは最初にお会いした時から真のアーティストに思えた。相談に乗ってもらった時、優作さんは黙って話を聞いてくれて、「判った」と。「ただ、お前がいる音楽の世界と俺がいる映画の世界も多分同じような成り立ちだと思うよ。日本は残念ながら欧米のようにプロデューサー・システムがなくて、良いプロデューサーがいない。才能のある新人が出てきても、それを大事に育て上げる力がない。だから日本ではセルフ・プロデュースしかない」と言っていましたね。あと、その時に例え話としてこんなことも言ってくれたんです。「土を耕して、種を蒔いて、水をあげて、芽が出てくる。それを大事に育むんだよ。次の年も同じように土を耕すことから始めて、俺たちはそれをやり続けるしかない。だけど、その姿を絶対にどこかで見ている人がいるはずだ。その人が近づいてきた時にハジければいいじゃないか」って。
原島:まさに“継続は力なり”ですね。
石橋:で、「映画のほうがメディアが大きいから、いつか名前と顔を映画で売ったらどうだ?」と言われたんです。それから半年くらい経った頃かな。また家に呼ばれた時には『ア・ホーマンス』という映画の台本が出来ていて、「これ読んでみな」って突然言われて。本当に大きい役だったので凄く驚いたんです。
原島:優作さんは何と?
石橋:「お前は芝居ができないんだからするな」と。「お前がARBで培ってきた感性とかフィーリングとか誠意とか、そういうのを現場で出してくれればいいから」って。その時に「ARBを茶の間に売るためのプロパガンダでいいですか?」ってハッキリと言ったら、ニコッと笑って、「それでいいよ」と。それで参加したわけです。
原島:優作さんがニコッと笑う瞬間を想像するとゾクッとしますね。初めての映画の現場はどうだったんですか。
石橋:プロパガンダというスケベ心で現場に入ったものの、それまでレコーディングやライヴで得た感動とは異質の感動がそこにはあったんですよ。映画作りに携わっている人たちの姿を見て、これだけ物作りにちゃんと向き合っている人がいるんだと思い知らされて、映画の底知れぬ魅力と強い衝撃を一身に受けましたね。そんな衝撃とは別に、自分が培ってきたフィーリングやセンスが奇しくも映画という現場でダイレクトに跳ね返ってきたんです。自分は間違っていなかったと思えましたから。
映画で芝居は絶対にしちゃいけない
原島:現場のみんなが受け入れてくれた上に、それが自分の考えていた以上の高みに達したと。
石橋:うん。撮影を終えた時に抱いた気持ちはふたつあったんです。ひとつは、これでもう一度唄えるなと。それまではレコードが売れないとか、集客がこれ以上伸びないとか、どっかで引っ掛かっていたと思うんだけど、そうじゃないんだと。偽らざる自分の気持ちをちゃんと唄っていけば間違っていないんだという確認が奇しくも映画の現場でできた。もうひとつは、映画そのものの魅力に凄いショックを受けたことですね。だから、自分の人生の岐路は最初に岸川さんによって救われて、ふたつ目の岐路は優作さんによって救われたわけです。こういう話をするとオーバーに聞こえるかもしれないけど、優作さんと出会っていなければそこまでだった。音楽もやめていたかもしれないし、九州に帰っていたかもしれない。
原島:優作さんと出会えて蘇生することができたわけですね。
石橋:まさにね。岸川さんも優作さんも仕事の現場では非常に厳しい方だったんだけど、そこで基礎を教えてもらったし、それは自分にとって財産になっていますね。
原島:優作さんとの現場で一番堪えたのはどんなことですか。
石橋:『ア・ホーマンス』の中で、中華レストランで幹部役のポール牧さんがひとりで食事をしているところに僕がジュラルミンのケースを持っていくというシーン。7、8歩歩いていくシーンなんだけど、これが何十回やってもNGで。そこに黒澤満さんという優作さんの一連の作品を手掛けていたプロデューサーとカメラマンの仙元誠三さんが来てくれて、「凌さん、ここは優作が言っていることを理解しなさい。ここを乗り越えれば他のほとんどの現場がラクに感じると思うよ」って言われたんです。でも、「判りました」と応えてやってみても、またNGで。
原島:結局、どこがいけなかったんですかね。
石橋:そのレストランがガラス張りの所だったので、「ガラスに向かって歩いてごらん」って優作さんに言われて、何回も歩くんだけどまだ判らない。で、「お前、自分で気づかないか?」って。「それはお前がたかだか二十数年生きてきた、ARBっていうヴォーカリストの歩きじゃないの? 鏡に映っている自分の姿を見てごらん。右膝が表に出てるし、左肩が下がってるよ。ここは山崎道夫という男がどういう目的を持って、誰に対して何を持っていくかの7、8歩なんだ。表はどういう天候でどういう湿度で、昼は何か食ったのか食ってないのか、そういうことを全部含めた上での7、8歩なんだよ」って言われたんですよ。
原島:でも、優作さんは「お前は芝居ができないんだからするな」って…(笑)。
石橋:僕も喉元まで出かかったけどね(笑)。でも、そういうことじゃなくて、優作さんが言ったのは「芝居をするなと言ったろ?」と。「映画で芝居は絶対にしちゃいけない。よく日本ではあれこれしたがる役者さんがいるんだ。でも、映画では引き算を覚えなさい」って言われたんです。つまり、お芝居をして7、8歩歩くんじゃない。現場へ山崎道夫として来れば自然と山崎道夫の呼吸でいられるし、体温にも山崎道夫の佇まいが出ると。そういうことを求められていたんですよね。
原島:演技を求めているわけではないと。難しいですね。
石橋:音楽と映画、同じ表現の仕事でも全然違うんですよ。ミュージシャンは自分もしくは他のメンバーが書いた楽曲を自分たちで表現するから凄く自由なわけだけど、どうしても物の見方が単一的になってしまう。もちろん、そうしたブレのなさや伝えたいことの強さこそがミュージシャンの魅力だから、それはそれでいいんだけど。それに比べて、俳優は一人称じゃなくていきなり三人称の時間が始まる。誰彼に化けていくし、監督が右を向けと言ったら向かなければいけない仕事です。非常に不自由ですよね。不自由だけど、その役をやることによって、セリフを言うことによっていろんなことを学べるんですよ。そうすると物の見方が単一じゃなくて、いろんな角度から捉えることができる。
自分が先導の船の光にならなければ
原島:優作さんは俳優と並行して音楽方面でも精力的に活動していましたよね。
石橋:ある時、優作さんが渋谷公会堂でやったライヴが余り良くなかったんですよ。出来の良し悪しは正直に言いたかったから、「優作さん、あれだけのファンの前であんなステージしちゃダメですよ」って言ったことがあるんです。そしたら、「そう言うなよ。映画があってなかなかリハが取れなかったんだよ」って。で、そのすぐ後かな。違うホールへ見に行った時はステージ上の優作さんがジョン・レノンに見えたんですよ。今まで見てきた俳優の優作さんじゃなくて、ミュージシャンとしての姿がジョン・レノンとダブるほど完成度の高いライヴだった。それは僕に言われたから云々じゃなくて、とにかく何事にも真剣で手を抜かない人なんですよ。優作さんの音楽活動を役者が片手間に音楽をやるイメージで捉えている人もいるかもしれないけど、全然違うんです。
原島:岸川さんと優作さんのふたりに共通しているのは無償の愛ということじゃないですかね。何事に対してもフラットで物を見ていて、ちゃんと思っている人間に対しては真剣に伝えていくし、全力でサポートしていこうという気持ちがあるところはふたりに共通していますよね。
石橋:真剣だからこそ、いい加減なことを言わないんですよ。特に優作さんは、一緒にいる時はいつも一期一会みたいな空気だったし。呑んでいても話が真剣なんです。でも、それが全然暑苦しくない。だから、岸川さんも優作さんも僕にとっては侍の先生みたいな感じなんですね。
原島:石橋凌はこの先どこへ向かっていくんですか?
石橋:残念なことに、僕をこの世界へ押し出してくれたふたりの方はすでに亡くなっているんですよ。それまでは漆黒の闇の海を航海していても、必ず前に光を照らしてくれる船があった。僕はその船に従って航海していたから、光がひとつ消えた時にこれからどうすればいいんだろうと思ったんです。優作さんの時も岸川さんの時もそうでした。でも、いつまでも前を走っている船の光を当てにしていてはダメなわけで、自分でその先を進んでいかなければならない。もしかしたら後続の人がいるかもしれないし、今度は自分がその人たちに向けて光を照らすような存在にならなければいけないと実感として感じるんですよ。押しつけじゃなく、自然とそういうふうにやっていけば後続の光も増えていくでしょうし。
原島:凌さんの背中をひとつの目印にして追いかけていく連中も多々いるでしょうしね。
石橋:“表現者”という言葉の名付け親は優作さんだったんですよ。『ア・ホーマンス』が終わった時、優作さんから「ミュージシャンだとか俳優だとか、垣根を取っ払ったらどうだ?」と言われたんです。「これからは“表現者”として生きろ。何をやってもいいじゃないか」って。それ以降、僕は未だに“表現者”と名乗っている。今は俳優のほうが安定してきているけど、「音楽のほうもそろそろどうですか?」と今のスタッフからも言われているので、ソロとしてまた歌を再開したいと思っているんですよ。
原島:11月には大阪で優作さんの20回忌のライヴと福岡で岸川さんのイヴェントがありますけど、“表現者・石橋凌”としての音楽を体現できる格好の場となりそうですね。
石橋:自分の顔なり名前をドラマや映画で知って下さる方がだんだんと増えてきていて、最近は「本当に歌を唄っていたんですか?」と言われることもあるので、歌も疎かにはしたくないんですよ。ただ、これはなかなか口で言うのが難しいんだけど、どうしても日本だと“片手間に俳優をやっているんでしょ?”とか“片手間に歌を唄っているんでしょ?”という見方をされるので、俳優も歌も積極的にやることで“新しいタイプの表現者なんだな”というふうに映りたいんですよ。僕はもともとロック・ミュージックだけに拘っていたわけではないから、今後はいろんな歌を唄っていきたいし、いろんな役を演じていきたい。それをサポートしてくれる人たちも周りにいてくれるし、凄く有り難いことだと思っていますよ。
after talk jam...
message to RYO
久々に再開するトーク・ジャム、これほどまでに真摯に語ってもらい感謝してます。
何かと会う機会がありますが、膝つき合わせて話す機会はめったになく、何か己に照らし合わすものがありました。11月の唄、楽しみにしています。(スマイリー原島)
Live info.
SOUL RED 松田優作 20th MEMORIAL 生きているのはお前か俺か?
8月7日(金)東京・新宿LOFT
8月7日(金)東京・WAREHOUSE702
9月12日(土)東京・東京キネマ倶楽部
9月21日(月・祝)東京・恵比寿LIQUID ROOM
10月23日(金)名古屋・クラブダイヤモンドホール
10月31日(土)横浜・BAY HALL
11月6日(金)大阪・名村造船所跡地(石橋凌が“石橋凌 with 池畑潤二+渡辺圭一+伊東ミキオ+藤井一彦”として出演)
松田優作と魂を同じくするアーティストが集結し、パワフルなライヴを行う『SOUL RED LIVE』。
詳細は『松田優作 20thメモリアルプロジェクト“SOUL RED”』特設サイトを参照下さい。
http://www.yusaku-matsuda.com/soulred/
風音(KAZAOTO)vol.3
11月21日(土)DRUM LOGOS
ACT:石橋凌+池畑潤二+渡辺圭一+伊東ミキオ+藤井一彦/上田雅利・姫野達也(チューリップ)/横道坊主/杉真理/山下久美子/山口洋 and more...
open 16:30 / start 17:00(予定)
adv. 4,500yen (+1drink) / door 5,000yen (+1drink)
info. TSUKUSU:092-771-9009