ギター 編集無頼帖

“センム”のこと

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 『漣流(SAZANAMI-RYU)〜日本のポップスの源流を作り出したヒットメーカー〜』(和田彰二・著、株式会社音楽出版社・刊)という本を読んだ。
 本書の主人公、漣健児(さざなみ・けんじ)とはシンコー・ミュージックの会長だった草野昌一の訳詞家としてのペンネームである。草野昌一は戦前からあった『ミュージック・ライフ』を50年代に復刊させて編集長となり、60年代には坂本九や弘田三枝子といった歌手の唄う日本語カバー・ポップスの訳詞を数多く手掛けたヒットメーカーとしてその名を馳せた。また、当時未整備だった日本のコピーライト・ビジネスの開拓者としてその偉業は今なお讃えられている。さらに70年代にはチューリップや甲斐バンド、80年代にはレベッカやプリンセス・プリンセスといったバンドを手掛けてアーティスト・マネージメントでも破格の成功を収めた。
 僕はこの“ショー・クサノ・カンパニー”で大学を出てから5年半ほど働いていたことがあって、本書に出てくる弟の浩二さんや『ヤング・ギター』創刊編集長の山本さん、小山さん、青柳さんや宮城さん(初期ARB、チューリップのメンバー)といった社員の名前が多々出てくるのでそれだけで面白く読めた。数々の関係者の証言を交えながらテンポ良い筆致で漣(草野)の軌跡が綴られていく多面的かつ立体的な構成も良いと思う。
 欲を言えば、関係者の証言として“アンチ・ミーハー(ミュージック・ライフ)”路線を貫いた編集者…たとえば水上はる子さん(星加さんの後を継いだ『ミュージック・ライフ』の編集長であり『JAM』の創刊編集長)や酒井康さん(『BURRN!』創刊編集長)などもう一方の意見があればもっと面白くなったと思うが、恐らく取材はNGだったのだろう。ちなみに、阿佐ヶ谷ロフトA店長のテツオは水上さんの紹介でロッキング・オンで働いた経験があるという。どうやらすぐクビになったらしいのだが(笑)。
 僕もシンコーはクビになったクチで、解雇なのに自主都合の退職届を書かされたので後味の悪い別れ方しかできなかったし、漣健児こと草野昌一は最後まで縁遠い存在だった。酒井さんが社長を務めるバーン・コーポレーションの書籍編集部という本社とは隔離された子会社で働いていた身としては、本社へ出向く機会も頻繁ではなく、草野昌一とも何度か同じエレベーターに乗り合わせた程度の接触しかなかった。
 会社の一次面接でシンコーの立派なパンフレットをもらって、最初のページに“センム”(草野昌一は社員からそう呼ばれていた)のメッセージと共にポマードを撫でつけた黒々とした毛髪に浅黒く脂ぎった顔写真が載っていた。が、面接官のひとりとして目前にいるセンムは白髪だらけで痩せこけたお爺さんで、エラく驚いた記憶がある。パンフレットに載っている写真は延々使い回していたのだろう。
 学生時代、『ミュージック・ライフ』の“ミーハー”路線の記事を毛嫌いしていた(辛うじて『クロスビート』は読んでいた)僕がシンコーを受ける気になったのは、ひとえにビートルズの極東版権を持っていたという至極“ミーハー”な理由からだった。他にも同業他社の面接を受けたものの、書類選考、一次、二次、三次と面接を通してくれたのがシンコーだけだったという偶然の積み重ねもある。何のことはない、“ミーハーは素敵な合言葉”(by 東郷かおる子)としてミーハーがミーハーに呼び寄せられただけの話だ。
 だがしかし、センムがコピーライツ事業に精を出し、(内容の善し悪しはさておき)あまたもの音楽雑誌や書籍を世に送り出すことがなければ、僕が音楽系活字稼業などというヤクザな道に足を踏み入れることもなかったのは紛れもない事実だ。その意味で、僕もまた草野昌一によって人生を大きく変えられた人間のひとりだとも言える。シンコーでの経験がなければロフトに拾われることもなかっただろうし、こうして今こんなところで拙文を晒すこともなかっただろう。数珠繋ぎの人生、何が起こるかわからないものである。
 4年前の夏に行なわれたセンムのお別れ会について言及する箇所も本書にはある。あの時、祭壇で黙祷した時に壇上で撮影をしていたハウスカメラマンの小嶋さんとアイコンタクトが取れて微笑み合えたのが、僕にとってはささやかだが良い思い出として記憶に残っている。(しいな)
posted by Rooftop at 11:57 | Comment(0) | 編集無頼帖
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