1983年7月。不況や失業、あらゆる差別や矛盾の中、フォークランド紛争で父親を亡くした少年は、仲間と共に“イングランド”のアイデンティティと自らの未来を求めもがいていた──。
現代にも通じる普遍的な少年の成長を描くドラマ性と、80年代初頭の郊外労働者階級の若者たちが傾倒したスキンヘッド・カルチャーをリアリティ溢れる映像で描写した、シェーン・メドウズ監督の自伝的青春映画『THIS IS ENGLAND』。本国イギリスでは単館上映からスタートするも、イギリス全土の共感を呼んで大ヒットを記録。その後もアメリカ、オーストラリア、ヨーロッパ全域など、世界各国で“史上最高のイギリス映画”と圧倒的な支持を得ている。英国の『THE TIMES』紙からも“『トレインスポッティング』以来、最高のイギリス映画だ!”と大絶賛された本作の日本公開を記念して、本誌では公開の一足先に試写会でその内容に触れたイースタンユースの吉野 寿にインタビューを敢行。一時期は自身もスキンヘッド・カルチャーにどっぷりと漬かった吉野の本作に対する所感、当時のイギリスを取り巻く社会的背景とその土壌で生まれたスキンヘッズの考察は一読の価値があると自負している。未だに終息する気配のない不況の波と失業率の増加、一向に縮まることのない経済格差が深刻な問題となっている現在の日本と、この『THIS IS ENGLAND』で描かれている時代のイギリスの状況は大いに重なる部分がある。それでも自らのアイデンティティをしっかりと固持しながら、“肯定化はするが正当化は決してしない生き方”を突き詰めるための示唆に富むヒントがこの映画と吉野の言葉には潜んでいると僕は思うのだ。(interview:椎名宗之)
スキンヘッズが生まれた土壌と社会的背景
──まず、映画をご覧になっての率直な感想から聞かせて下さい。
吉野:面白かったですね。いい映画だったと思いますよ。ただのサブカル映画みたいな感じじゃなく、映画としてちゃんと伝えたいことがしっかりとあったし、そのひとつの要素としてファッションや音楽が当時の時代背景と共に必然的に絡んでくる感じだったから。
──劇中に使われている音楽も必然性のあるものばかりですしね。
吉野:スキンヘッズを軸にして物語を展開させていくなら、あの当時支持されていた音楽を使わざるを得ないですよね。スキンヘッズが出てくる映画は今までも何本か見たことがあったけど、どれもステレオタイプにネオ・ナチ的な感じで捉えられてるんだよね。スキンズっていうのはひとつの社会風潮みたいなもので、それを生み出す時代背景が必ずあるわけですよ。この映画はそこを踏まえてちゃんと物語として成立させているのがいいなと思った。
──冒頭からして、サッチャーがフォークランド紛争に言及するシーンや炭坑のストライキ、インベーダー・ゲームやルービック・キューブ、デュラン・デュラン、そして街を練り歩くスキンヘッズといったニュース映像が織り込まれていますからね。
吉野:やっぱり、社会派映画だったよね。アプローチがケン・ローチ(イギリスの映画監督・脚本家)とかに近いと思う。俺もケン・ローチの映画をそんなにたくさん見たわけじゃないけど、近いものを感じた。
──主人公のショーンは1983年7月の時点で12歳という設定ですから、当時の吉野さんよりも3歳年下になるわけですね。
吉野:あれ、そんなもんかい? 言われてみればそうだね。全然わかんなかった、そういうの(笑)。
──12歳の無垢な少年が24、5歳のスキンヘッズのグループと行動を共にするのだから、かなり背伸びをした感じですよね。
吉野:確かにね。ただ、俺の持ってるスキンヘッズの写真集に、主人公のチビ助とそっくりな子が出てくるんだよ。チビ助4人組がちゃんとスキンズの格好をしてジークハイルしてる写真なんだけど。俺はその写真を最初に見た時、凄くショックを受けたんですよ。余りにイデオロギーに毒されてる感じがして。この映画のことを知った時に、その写真のことを思い出した。当時の時代背景や目上の人の影響もあってこういう態度になるのかなっていう俺の思ってたことが、この映画にはその通りに描かれてあったから納得したですね。ファッションを追っかけてパンクでブッ飛ばせみたいな感じじゃなくて(笑)、映画として真面目に作ってあると思った。
──ショーンが最愛の父親をフォークランド紛争で亡くしているという設定も巧妙ですよね。亡き父親の面影をスキンヘッズ・グループのボスであるコンボに求めることになるわけですから。
吉野:実際にそういうことが多かったんだと思うよ、恐らく。そういう時代の社会的背景から右翼思想に捕まってしまうことも起きるんだろうし、いわゆる不良少年がそういった集団に感化されていったんだと思う。まぁ、これが日本だとパンチ・パーマみたいになるところだけど(笑)、イギリスは60年代のモッズ・シーンから伝統的に受け継がれている洗練されたサブカルチャーと結びつくところが羨ましいね。
──モッズもテッズも、日本的解釈が入るとどうもおかしなことになりがちですよね(笑)。
吉野:でも俺、『ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR』っていう日本の巨大暴走族の創成期を記録した映画が好きでさ、その映画に出てくる若者たちは凄くオシャレで格好良かったよ。パンチ・パーマでもなかったしね(笑)。ピタッとした細身のズボンを穿いて、シャレたカーディガンを着てみたりさ。それがいつの頃からかパンチ・パーマみたいになっちゃったんだね(笑)。俺の兄貴たちくらいまでは結構バラエティに富んでて、みんな面白い格好をしてたけど。
部族の掟が結束を高めていく
──ベン・シャーマンのシャツにドクター・マーチンのブーツ、ブリーチしたタイトなデニムにサスペンダー、女子はフレッド・ペリーのポロシャツにデニムのミニスカート。そうしたスキンヘッズが嗜好したファッションは今見ても素直に格好いいと思えますよね。
吉野:いつの時代でも、若者っていうのはひとりじゃいられないんだよね。集団に属して互いを守り合って生きていかないと弱い存在なんだと思うよ。それで各々がいろんな部族に分かれていくんだけど、部族には掟が必要なんだね。その掟で結束を高めていくわけさ。その一環として、服装に厳しいルールがあるわけ。スキンズはモッズから引き継いでるから、服装に関しては余計厳密なルールがあるんだと思う。ユニフォームっていうのは連帯感を強めるんだよ。厳密なら厳密であるほど結束が強まるしね。俺も身に覚えがあるので、そのニュアンスはよくわかるね。俺なんて北海道の田舎に住んでたし、ベン・シャーマンって何だ!? って感じだったから、適当に古着で買ってきたネルシャツを着て、それに無理矢理サスペンダーをしたりしてたよね。ホントはそれじゃ許されないんだろうけどさ(笑)。あの長く編み上げている靴がドクター・マーチンっていうメーカーだと気づくのに何年も掛かったしね。
──当時のイギリスにおけるファッションの最新動向が、オンタイムで日本に届くとはとても考えられないですしね。
吉野:俺の住んでた田舎までは届かんかったよ。俺がこの映画の主人公と同年代くらいの時…80年代前半くらいには、すでにハードコアを聴いてたし、スキンズっていう連中がいることも情報として知ってた。でも、当時の俺はパンクのほうが好きだったから、“頭が丸坊主だなんて冗談じゃねぇや!”って思ってたね。だけどパンクスの写真を見てると長い靴を履いてるし、何でこんな靴を履いてるんだろう? と思っても、誰も教えてくれない。帯広市で買えるような本では説明がつかないんだよね。
──紀伊國屋やリブロみたいに洋書も置いてある大型書店なら、それに類する写真集とかがあったかもしれませんけどね。
吉野:うん。そんな感じでファッションに関しては全くの謎だったから、とにかく工夫するしかなくてね。親父のワイシャツの襟にバリッと糊を効かせて着るとか、そういうニュアンスだったね。今となってはそっちのほうが可愛いと思うし、そういうことがオリジナルっていうことかなと思うけど、若いうちは身も心も同化したかったわけさ。本物のスキンズ、本物のパンクスになりたかった。だからフォーマットを知りたかったんだけど、今みたいにインターネットもなかったしさ。1枚の切り抜きを穴が開くほどジーッと見つめて、それで妄想を膨らませてただけだったね。
──吉野さんがスキンヘッズを強く意識し始めたのは、パンク・ミュージックを通じてですよね。
吉野:そうだね。バウズっていうバンドのソノシートを買ったら、メンバーがみんな坊主頭だったわけ。それが何故かよくわからなくてね。『音楽専科』とかを読むと、ハードコア・パンクっていうのとスキンヘッズっていうふたつの流れがあるらしいと。どうやらそういう人たちらしいぞってことになって。いろいろ調べていくと音楽性も違うことを知って、自分はこっちの音楽のほうが好きって言うかさ。もちろんハードコア・パンクは好きだったんだけど、スキンズはパンクの8ビートが持つポップな感じに近かったんだよね。で、パンクの格好してスキンズっぽい音楽をやったりしてたんだけど、それからだんだん感化されていった。その後に札幌へ出ると、レコードもあるからちょっとは情報も広がってさ、どうやら俺の格好とやってることはギャップがあるみたいだぞってことになって、そこからまたどんどん掘り下げるわけ。最初は音楽やファッションから入ってったけど、それがイデオロギーとくっついてることを知るわけだよ。若いからさ、よりコアな部分に行きたがるんだね。
──まさにこの映画のような展開ですね。
吉野:うん。洋服の掟に思想的な掟までくっついて、より忠実にその部族の掟に従おうとすると、それも受け入れなきゃいかんのだっていう気持ちになってくるわけさ。それでどんどん深みにハマっていくんだよね。ホントはどっかで気がついて帰ってこなきゃいけないんだけど、帰ってくるってことは、一度入ったその部族からはみ出すってことだから凄く怖いんだよ。せっかくできた仲間や自分が所属できた部族から放逐されるんだから。だから、帰ってくることはなかなか難しい。
明確な敵を作る論法の怖さ
──この映画の中でも、ひとつのスキンヘッズのグループの中で仲間割れが二転三転しますよね。
吉野:あれは凄くよくわかる。時代背景は全然違うけど、見たことがあるような景色だったね。俺たちの周りにも似たようなことはあったよ。俺自身も一時期は考え方も結構ドックシ行ってたから、信じようとしてたね。
──刑務所帰りのコンボにアジられてその場は極右思想に感化されたスキンヘッズのひとりが、国民戦線の集会に参加した後に違和感を覚えて脱落してしまったりするシーンはリアルですよね。あの揺れ動く心情は凄くよくわかるなと思って。
吉野:結局、ファッションの一部としてその集団に入ってるからね。俺たちが抱く何とも言えないこの閉塞感を、俺たちはこの格好で表現するんだっていうさ。俺はお前らとは違うんだ、俺はこの部族の誇りを拠り所として社会の抑圧と闘っているんだっていう証だからね。そこからイデオロギーに惹かれてドックシ入っていくヤツもいるけど、そういう思想的なものに違和感を覚えて押し退けようとする敏感なヤツはちゃんといると思うよ。
──コンボのアジテーションを聞いていると、敵対する主義主張を問答無用に排斥するやり方、単純でわかりやすい敵を作る論法に対する警告がこの映画における主題のひとつのように感じますね。
吉野:そうだね。ただ、敵っていうものを明確にすればするほど闘いやすくはなるんだよ。だから、わざと敵を求めてるような部分もある。ひとつのでっかい法律みたいなものがあったほうがみんなで団結しやすいし、燃えるんだと思うよ。でも、自分の実感以上のでっかい力に押さえつけられて思考停止になるのなら、結局はミイラ取りがミイラになってしまう。トップダウンで下される命令が絶対で、「ガタガタ言わずに信じてりゃいいんだ!」みたいに言われてたらそうなるよ。大本営発表、敬礼! みたいな感じでさ。人を洗脳してやるとか、力で言うことを聞かせてやるっていうヤツの顔ってさ、刑務所帰りのコンボだっけ? まさにあんな顔をしてる。だけど、あの男も実は不安定で揺れてたんだね。どうしてあの男があんなことになったのかっていう説明まで及んでないところが残念だなと思った。ホントはいろんな心の葛藤があって、そっちに引っ張られていく何らかのプロセスがあったはずなんだよね。時間の都合なのかわからないけど、そこがちょっと駆け足になってたのが残念だったね。そこにこそホントはカギがあるんだと思う。何でそうなっちゃったの? っていうさ。
──コンボ自身が「俺は1969年からスキンヘッズだった」と話すシーンはありますけどね。
吉野:やっぱり最初の入口はそこなんだね。自分たちの部族としてのプライドで社会の抑圧と闘うんだっていうところから入っていったんだと思う。それをどんどん掘り下げていくと、何故こんなに抑圧を受けているんだ? と思うに至る。そうすると「あいつらが悪い、こいつらが悪い」って言うヤツが出てくる。そう言われてみれば確かにその通りだと思うようになる。あと、プロパガンダって言うかさ、旗のデザインとかがわかりやすいし格好いいんだよね。
──ショーンが右手の中指に入れた刺青であるとか。
吉野:そういう統制されたもの特有の美しさってあるんだよ。そこに引っ張られてしまう部分もあるだろうね。
──それと、サッチャー政権下の規制緩和政策で経済格差が生じたことも大きな引き金のひとつですよね。
吉野:うん、それもあると思うよ。貧困や抑圧をどうやって跳ね返したらいいのかみんな考えるわけさ。そこでイデオロギーがくっつきすぎちゃうと、もともとが純粋で素朴な人であればあるほど、まるでスポンジみたいに悪いものをグーッと吸収しすぎちゃうんだと思う。もとが無垢な人だから疑わなくなっちゃう悪循環も生じる。疑うことは大切なんだけどね。
──映画の最後のほうでコンボがジャマイカ人のミルキーに対して理不尽な暴力を振るうシーンがありましたけど、ああいうシーンを見ると連合赤軍の“総括”と称される暴力を思わず連想してしまうんですよね。
吉野:うん、メカニズムは同じなんだと思うよ。若者はまっすぐだし、いろんな物事をストレートに感じるからね。自分の信じる正義にグッと深く踏み込んでしまった以上、そこから抜けようとすると臆病者のレッテルを貼られるし、怖いんだよ。歳を取ってふてぶてしくなって、面の皮が厚くなると自分で判断することが少しはできるようになるんだと思う。でも若いうちは繊細だし、極まるところまで行きやすいんだよね。何故なら信じてるから。イデオロギーをまっすぐに信じてるから。だから疑うことを忘れてしまう。その結果、集団の理屈に呑み込まれて個人というものを封殺されてしまうんだよ。
──映画の中盤のほうで、コンボがウッディの仲間たちに対して延々とアジる中で、ミルキーに対して「お前はジャマイカ人なのか? イギリス人なのか?」と詰問するシーンがあるじゃないですか。移民の大量移入という当時のイギリスが抱えていた問題を象徴していると思うんですが、ああいうシーンを見ると胸が痛みますね。
吉野:ああいう緊張感ってよくわかるね。ここで一歩間違ったことを言ったらリンチだぞっていう緊張感だね、あれは。
疑うことをやめたら思考停止になる
──吉野さん自身は、さっき仰っていたような集団の理屈に違和感を覚えて離脱に踏み切ったんですか。
吉野:できるもんだったら、思いっきりドックシ行く人になろうと思ってたよ。ホントに信じられるもんだったらそこまで行ってやろうと思ってさ。だけど、知れば知るほど矛盾があるし、より良い世の中のために動いているのに全然より良く感じられなかった。要するに言ってることが趣味的なわけ。それが日本の伝統だ何だって言うけど、大戦前後のあの感じが好きなだけじゃないの? って言うかさ。伝統なんて変わっていくものだし、人が生きてるっていうことが大事なんであって、生きてる人によって伝統の形は変わっていくんだよ。それを受け入れられないのは趣味的だなって感じ。受け入れないのは勝手だけど、そうは問屋が卸すかよって俺は思うわけ。掘り下げれば掘り下げるほどおかしいと感じたし、もうダメだ、付き合いきれないと思った。共感できることはたくさんあったんだよ? だけど根源が共感できない。だって、俺は国家に忠誠なんて誓えないからさ。「戦争に行け!」って言われたって行きたくねぇし、俺のところにまで攻め込んできたら闘うけど、国家のためには闘わない。論議をうまくすり替えて、“家族を守るために死んだ”だの“愛する人のために死んだ”だの言うけどさ、それを命令したヤツの顛末はどうなったのかと言えば、今でも生き残ってるヤツもいるし、確たる地位を築いてるヤツもいる。言い逃れして「俺のせいじゃない」って言ったヤツもいる。
──矛盾も矛盾、大矛盾ですね。
吉野:それが伝統だなんて言われても、そんなことは呑み込めない。知れば知るほど呑み込めない。最終的には“だってそういうもんなんだよ”ってことになるわけ。イデオロギー的にも、こっちが右翼であっちは左翼って単純に二分化するだけになってしまう。たとえば右翼の集団の中で仲間内的に気に入らないことを言うと、すぐに左翼的だと言われる。もちろんその逆もあるよね。どっちでもいいんだよそんなことは! って俺は思うから、どっちにもいられないんだよ。
──映画の最後にショーンが旗を海に投げるシーンがありますけど、吉野さんが今仰ったことと重なりますね。
吉野:あのチビ助の気持ちはよくわかるよ。彼もきっと、こんなことのためにこの部族に惹かれたわけじゃない、これはより良く生きるためのものじゃないっていう判断を下したんだと思う。
──当時のイギリスにとって、ドーバー海峡の向こうのヨーロッパ諸国は遙か遠い外国だったし、その頑迷な島国意識がスキンヘッズのようなユース・カルチャーを生み出したとも言えませんか。
吉野:どうだろうね。やっぱり若者にはファッションと結束が必要なんだよ、いつの時代も。イデオロギーをそこに持ち込むのが悪い。そことくっつくと、良かったものが悪くなる。政治的な考え方は人それぞれあってもいいと思うけど、これは右翼、あれは左翼、みたいにでっかいイデオロギーにハマると台無しになっちゃうって言うかさ。今の状況をより良くするにはどうしたらいいかを話し合って、少しずつ進めていこうじゃないかっていう姿勢なら有意義な方向に行き得ると思うけど、大本営発表みたいなものに丸ごと乗っかっちゃうと思考停止になる。それは不毛だと思うよ。
──人間の感情も白と黒に二分化できるほど単純なものじゃないですよね。むしろどっちつかずの灰色であることのほうが個人的にも多いくらいですから。それと同じように、思想的なものもキレイに二分化はできないと思うんですよ。
吉野:うん。疑うことをやめると思考停止になるんだよ。だから常に疑ってないとさ。俺はこの考えを真実だとずっと信じてたけど、ホントにそうかな? って疑うことが大事なんだよね。いや、絶対に間違ってない! っていうことはないと思う。ある側面から見ると凄く悪い考えなのかもしれないけど、全体的に見たらどうなのか? とかさ。“とにかくこれでいいんだよ!”って力でねじ伏せようとするのがイデオロギーなんだと俺は思うよ。そこからは逃げ出さなきゃいけない。この映画の主人公みたいに旗を丸めて海に捨てなきゃいけないんだよ。そうじゃないと自分の考えっていうものが持てなくなっちゃうからさ。イデオロギーに振り回されてるうちは他人の決めたことに従ってるだけだし、それは忠実な兵隊になるってことでしょ?
──そのことをショーンは最後の最後で気がついたんでしょうね。
吉野:刑務所から帰ってきた男も実はただの若者で、揺れてたんだなってことだよね。悪魔みたいなものに取っ捕まっちゃってただけでさ。だからあんな感情的な暴力沙汰にもなるし、ホントに悪いのは亡霊みたいなイデオロギーや思想であって、それに捕まってしまうことがよくあるんだよ。だから見方によっては刑務所帰りの男も被害者だったと言うかさ。この映画の中ではそういうふうに捉えてあったと思うよ。弱さをチラチラッと盛り込んでいたってことは、そういうふうに表現したかったんじゃないかな。
──敵対するウディのガールフレンドであるロルに恋心を打ち明けた末に玉砕するシーンもありましたからね(笑)。
吉野:だいたいね、気が小さい人ほどでっかい思想に引き摺られやすいんだよね。自分もそうだったからよくわかるけど。自分に自信もねぇし、気も小さいから、虎の威を借る狐じゃないけどイデオロギーに依存しちゃうんだと思う。その威光を借りて自分の力を誇示するっていうさ。自分の力じゃねぇのになって思うけど、それに気づくには勇気が要るんだよ、きっと。
娯楽であり、プロテストでもある音楽
──スペシャルズ、トゥーツ&メイタルズ、アップセッターズ、デキシーズ・ミッドナイトランナーズといった劇中の挿入歌として使われた音楽は、吉野さんも当時聴いていましたか。
吉野:知ってる曲は何曲もあるよ。持ってないレコードの曲もあるけど、半分以上は知ってる歌ばっかり。どれもいいねぇ。純粋に音楽として素晴らしい。サントラも買ったんだけど、凄く楽しめるコンピレーションだったね。
──有色人種の移民が白人の労働者階級に伝えたルーツ・ミュージックも好んで聴いていたんですか。
吉野:好きだったね。ロックステディって言うの? ああいうヤツ。それもやっぱり、スキンズはこういう音楽を聴かなきゃっていうのが発端でさ、その手のレコードを買い漁って、聴いてるうちにだんだん好きになってった感じだね。音楽的にガーンと来たと言うよりはファッションから入ってったけど、今でも好きでよく聴くよ。ポップで明るいんだけど、実はちょっと裏街道的な怪しさにも満ちてるって言うか、粋な感じがするんだよね。レゲエになっちゃうとちょっと苦手なんだけどさ。「One Love」とか言われてもピンと来ないんだよ。それよりももっとストリート・レベルの歌がいい。
──もっと憂いを帯びたものに惹かれると言うか。
吉野:うん。切なさって言うかさ、ちょっと寂しい感じが欲しい。1本奥の暗い路地みたいなさ。ザワザワしてて足を踏み込むのが怖いんだけど、そっちへ行ったほうが何か面白いことがありそうな感じ。ロックステディのレコードにはシュッとしたスマートさがあるし、そういう格好良さには憧れる。今でもよく聴くけど、気分が良くなるよね。
──スカやロックステディといったジャマイカのルーツ・ミュージックがイギリスへ渡った移民によって広がったことも、この映画ではわかりやすく描かれていますね。
吉野:“何、この音楽? カーックイイーなぁ、おい!”ってことだよね。大事だよね、そういう口コミ・レベルの伝わり方って。“俺たちにはこの音楽だよ!”っていう感じで定着していくとさ、ベン・シャーマンのシャツみたいに自分たちの部族にピッタリと寄り添うものになるんだよね。結局、みんなで身を寄せ合って社会の抑圧から逃れていかなきゃいけないわけさ。そうやって自分の人生を楽しく輝かせていかなきゃいかんわけさ。そうじゃなかったらただのネジみたいになっちゃうんだから。要するに、“俺は社会の歯車じゃねぇんだぞ!”っていう意思表示だよね。そのためのツールとして音楽は大事なんだよね。ただ、今の俺にはもう部族のための音楽をやる気持ちはないからさ。俺たちの部族を代表して唄いますっていう意識もないし、俺はもう特定の部族に属してないから。自分の人生を唄いますっていうだけだからね。
──今あるのは、唄うことで社会とコミットしていくという意識ですよね。
吉野:そうだね。俺にとっての音楽とはそういうものだけど、どういうものであってもいいと思うんだよね、音楽って。格好良くて踊るのにいいとか、オシャレな感じがするから聴いてるとかでもいいと思うし。
──音楽は娯楽としての効用が大きいわけですからね。
吉野:娯楽であってプロテストでもあるわけ。意思表示でもあるし、ダンスでもあるって言うかさ。
──ルーツ・ミュージックが物語を彩る一方で、冒頭にはデュラン・デュランのサイモン・ル・ボンが映るという、あの対比もいいですよね。
吉野:そういう時代背景を見せたかったんでしょ、この映画でさ。スキンズっていうものを見せたいっていうよりは、時代そのものを描きたかったんだと思うよ。監督はその時代にスキンズっていうカルチャーを通ってきたから避けられなかったんだと思う。要するに、自分が慣れ親しんだスキンズのコミュニティを通して時代っていうものを映し出したかったんじゃないかな。当時の若者が抱えていた問題が、今の時代にも共通する普遍的なものであることを訴えたかったんだと思うよ。
──“100年に一度の経済危機”と言われる昨今、金融不況下で起こった経済格差や高い失業率など、今の日本は80年代前半のイギリスと大いに重なる部分がありますよね。
吉野:どうなんだろうね。ただ、パンクが出てきた背景にはそういう問題があったって言うよね。俺もモノの本でしか読んだことがないから、実感としてはわからないけど。史実の通り、多分そういうことなんでしょう。日本でも、たとえば片田舎に貧乏人として生まれて、そこから一生抜け出せずに貧乏のまま終わるっていう社会の仕組みが厳然と今もあるよね。日本もそういう国になりましたっていうことだね。
──父親を戦争で亡くすという経験は、今の日本ではリアリティとして感じられませんよね。
吉野:俺たちの世代ではね。それに加えて、今や戦争がテレビ中継される時代だからさ。ちょっとショーっぽい感じに思えるところもあるよね。
──湾岸戦争のテレビ中継以降、どこかバーチャルな感覚が拭えない部分はありますね。
吉野:ねぇ? まるでテレビ・ゲームみたいだもんね。
“青春映画”の傑作『さらば青春の光』
──この映画のような、いわゆる青春映画と称されるジャンルは本来苦手なほうですか。
吉野:そんなことないですよ。どっちかって言うと青春映画は好きなほうですね。ただ、基本的にハリウッド映画が嫌いなんですよ。制作費とスターをガッツリ突っ込んで、大して深みもない筋なのに派手にやろうぜみたいな映画がね。全部が全部そういうわけじゃないし、好きなハリウッド映画もあるんだけどね。嫌いなハリウッド映画の中でも、青春映画は好きなほう。
──『アメリカン・グラフィティ』とか?
吉野:好きなほうですね。
──ハリウッド映画ではないですが、『さらば青春の光』はどうですか。
吉野:好きですね。ビデオで何遍も見ましたから。
──『THIS IS ENGLAND』という映画を知って、すぐに連想したのが『さらば青春の光』だったんですよね。
吉野:そうだね。『さらば青春の光』もよくできた映画だと思う。
──『さらば青春の光』の最後のシーンで、暴走するベスパが崖から落っこちるじゃないですか。
吉野:あれ、冒頭のシーンに戻ってるんだよね。
──そうなんですよね。10代の頃に初めて見た時はわからなかったんですけど、主人公のジミーは死んでなかったんだなっていう。
吉野:そうそう。ドッコイ死なねぇところがまさに“青春の光”って感じ(笑)。若者は意外と叩いても死なないっていうふてぶてしい感じと希望の光が入り混じってると言うか、ひとつの季節の終わりと始まりを同時に描いてる。あれはホントいい映画だったね。今でも凄く好きですよ。
──こんな機会もなかなかないので、吉野さんのお好きな映画を伺いたいんですけど。
吉野:いっぱいあるんだけどねぇ。こういうのってさ、いろいろと挙げた後に“あれを言うの忘れた!”っていうのがあるじゃない?
──ああ、確かに。以前、“天沼メガネ節”で『復讐するは我にあり』のことを書いていらっしゃったように記憶してるんですが。
吉野:今村昌平、大好きですよ。あの映画の緒形拳は最高。凄くいい。テレビドラマの柳葉敏郎も良かったけどね。昔の日本映画の、あの何とも言えないザラッとした骨太さは好きですね。画質の感じを含めて、これぞ映画って感じがする。今の日本映画はテレビの2時間ドラマみたいだったり、インチキなハリウッド映画みたいで余りいいと思わないね。それでもよく見に行くほうだけどさ。面白いものもたまにある。こないだも『大阪ハムレット』っていうのを見に行ったけど、あれは面白かったな。松坂慶子が主役でね。久し振りにいい映画だなと思ったですね。
──昔の日本映画は墨汁の色が濃いと言うか、ズッシリとした重さを感じますよね。
吉野:うん、重さはあるね。野村芳太郎の『鬼畜』とかさ。あれも緒形拳だね(笑)。あと、同じ野村芳太郎で言えば『震える舌』とか、小栗康平の『死の棘』とかも好きですね。それとやっぱり、さっきも言った『ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR』ね。あれ最高。最ッ高にいい映画。何回も見てるからね。挙げていけばもっともっとあるな。普通に黒澤映画も好きだよ。『用心棒』とか『七人の侍』、『椿三十郎』とか大好きだし。ただ、織田裕二の『椿三十郎』にはガッカリしたけどね(笑)。あれにはビックリした。いい加減にしろ! と思ったね(笑)。
──あの『椿三十郎』のリメイクこそ、2時間ドラマでやってくれって感じでしたね。
吉野:ホントだよ。シャレになんねぇぞ、おい! って思ったけどね。いいところがひとつもなかったしさ。三船敏郎の格好良さ、豪快さを織田裕二が全部台無しにしてたからね。まるで学芸会みたいだったよ(笑)。
──特定の女優を見たいがために映画を見るようなことはありますか。
吉野:パッと思い浮かばないけど、ありそうな気がするね。そうだなぁ…強いて挙げると、宮沢りえは信用してる。最初はアイドルだったのに、凄い女優さんになったと思うよ。演技がとにかく巧いからね。凄いと思う、あの人は。だから、宮沢りえが出てる映画だといいところがありそうな気がするね。全部を見に行くわけじゃないけどさ。映画自体はつまんなくても、宮沢りえ自体は百発百中だからね。必ずグラグラッとなるよ。
“瞬発力”の音楽と“持続力”の映画
──吉野さんの考えるいい役者の条件とはどんなところでしょうか。
吉野:巧いってことだね。演技とはとても思えないって言うか、出てきただけで込み上げてくるものがあるって言うか。まぁ、巧いっていうのがどういうことを言ってるのか自分でもよくわからないけど(笑)、要するにその役にしか見えないって言うかさ。その役者が出てくることによって物語がグワッと動き出したり、絵がギュッと締まる感じ。
──『復讐するは我にあり』の緒形拳も極悪な連続殺人犯にしか見えない凄味のある演技で、ギラギラしてましたよね。
吉野:『鬼畜』の岩下志麻と小川真由美も凄いよ。夏の汗ばむあの感じ、バッチリ。やっぱり、巧い役者さんだと安定するんだね。凡庸な話でも、役者力で見せきっちゃうところはある気がする。
──『THIS IS ENGLAND』で主役を演じたトーマス・ターグースもいい役者でしたよね。
吉野:そうだね。如何にもいそうな感じだし、繊細そうなところも良かったね。どの役者さんも割と良かったと思うよ。まぁ、スキンズの連中がいっぱい出てきて、ひとりひとりのキャラクター説明が駆け足になってるのはもったいない感じはしたけど、俺は凄く楽しめたよ。俺も彼らと同じような境遇にいたから、“ああ、いそう! そういうヤツってこういう顔してる!”って感じ(笑)。そういうのは大事なんだよね。
──如何にもボス顔だとか、如何にもパシリ顔だとか(笑)。
吉野:そうそう。気が小さいけど威張ってる顔とか、一見線は細そうなんだけど芯は強い顔とかさ。みんないそうな感じがして面白かったよ。
──吉野さんが最も感情移入できたのは、やはり主人公のショーンでしたか。
吉野:主人公にも共感できたって感じ。あんな子供ではなかったけどね。それよりも、ああいうヤツいたなって言うか、若かった頃の仲間内ってああいうもんだったなっていう感じだね。
──ちなみに、ご自身で映画を撮りたいと思うことはありませんか。
吉野:絶対に無理! あんな緻密な作業は絶対にできないよ。雑だもん、俺は(笑)。映画を作るって凄いことだよ。だって、全部カットで分かれてるんだよ? 2時間の映画で全部で何カットあんのさ? っていう話。それを頭の中で組み立てながら、別々に撮ってくっつけたりするんだから。実際はそんなに広くない部屋をフレーミングで広く見せたりする手法があるけど、俺にはそんなセンスないからさ。無理。映画のことを詳しく知れば知るほど絶対に無理だと思うね。性格的に絶対向いてないよ。しかもさ、どれだけ苦労して撮った映画でもつまんないものはつまんないんだから、そこは厳しいよね。ますます怖い。怖い、怖い(笑)。
──音楽は少人数の低予算でも何とかなる部分がありますけど、映画はまずある程度の資金が必要ですからね。
吉野:そうだよ。音楽は瞬発力で何とかなるけど、映画は持久力だしね。ホントの粘り強さがないと最後まで辿り着けないしさ。凄い根気がなければ絶対に撮れないと思うよ。関わるスタッフは恐ろしく多いし、監督がブレると全部ブレちゃうし、本編の3、4倍の素材は撮らなきゃダメだろうし、商業映画ならいろんな制約や期限もあるだろうし、まず何より売れなきゃいけないわけでしょ? そんなおっかない世界、恐ろしすぎてかすりもしたくないね(笑)。俺は音楽以外にやりたいことがないし、音楽だったら苦しいことも何とか耐えられるわけ。何より励みになるしさ。聴くだけじゃ満足できないから自分で音楽を作って、演奏して、それで世の中と関わっていくことができれば生きていけるっていう感じ。そのための苦しさなら意外と我慢できる。やりたくない仕事を我慢するのは全然できないけどさ(笑)。
肯定化と正当化は全くの別物
──『THIS IS ENGLAND』の劇中歌の話をもう少ししたいんですけど、ストロベリー・スイッチブレイドの『ふたりのイエスタデイ』が流れた時、個人的に吉野さんの顔がふと脳裏をよぎったんですよね(笑)。
吉野:大好きだったねぇ、ストロベリー・スイッチブレイド。俺は普通にリアルタイムで聴いてた。ただのポップ・ソングじゃない、毒のある感じがしたね。既存の体制からはみ出して派生したポップ・ソングって言うかさ。だから好きだったんだと思うよ。
──最後のシーンでクレイヒルによるスミスのカヴァー『Please, Please, Please, Let Me Get What I Want』が流れていたのは、映画の時代設定である1983年の翌年にスミスがデビュー・アルバムを発表することに繋がっているのかなと思ったんですよね。
吉野:リアルタイムで生きてきた人が作った映画だから、そういう音楽的な背景もあるだろうね。俺はスミスは聴いてなかったからよくわからないんだけどさ。当時はハードコアに夢中だったから。G.B.H.、ディスチャージ、カオスUK、ディスオーダーを各々100万回ずつ聴いてたね(笑)。『ベストヒットUSA』みたいな番組に出てくるようなヤツらは悪だと思ってたからさ。あいつらはあっち側だ、こっち側じゃねぇ! と思ってたよ。
──ポリスとかマドンナみたいなアーティストですか?
吉野:マドンナやシンディ・ローパーとかは好きだったんだけど、基本的にあいつらは全部体制側だと思ってたね。コマーシャリズムに毒された連中だってね。そういうのもまた、イデオロギー的なものに引き摺られていく予兆があるよね(笑)。でも、当時はそういう定義づけみたいなものが必要だったんですよ、凄く。お前はこっち側か? あっち側か? っていうさ。この映画の中でも、線を引いて“お前はこっちに来るか? あっちに行くか?”っていうシーンがあったじゃない? ああいうのは凄くよくわかるよ。こっち側かあっち側かっていうのは、凄くミクロな次元でも大事だったわけ。“あっち側に行くんだな? よし、お前は敵だからな!”っていうさ。そういう傾向は未だに少しあって、だからこそ常に疑ってないと危ない、俺は。でもね、ぼんやりしてると感覚が鈍くなって、敵って一体誰だったんだろう? っていうのがわからなくなった挙げ句、煮ても焼いても喰えないモヤッとした固まりみたいなものになってしまっては俺の人生が面白くないわけさ。それじゃ人間としてのっぺらぼうみたいになってしまうという危惧感がある。だから、俺は一体何に対して気に喰わねぇと思ってるのかとか、俺はどうしてそれと関わっていこうと思ってるのかとか、たまに立ち止まってはっきりさせていかないと体よく丸め込まれちゃう気がする。だから、“ここだけは譲らん!”っていうところはどこにあるのかを自分に対して常に疑ってないと、鈍くなってきたような気がして怖い。何でもかんでも賛成、賛成で大人みたいな顔になっちゃってさ、“そんな考えもあるだろう”って容認するのも一方ではわからなくもないんだけど、“お前はどういうふうに生きていきたいんだ?”っていう問い掛けを自分自身に向けた時に、そこではっきりさせなきゃ曖昧なまま進んでいくことになっちゃうからね。
──思考停止って確かにラクですしね。足元を掬われたら最後ですけど。
吉野:そうやってぼんやりしてるところに悪が付け込んできて、ポッカリ空いた穴みたいなところにクソみたいなものをビッチリ詰め込もうとするわけさ。ぼんやりしてるもんだから、それがクソなのか何なのかも気がつかない。クソでも何でも、満タンになってりゃ充実感があるみたいなさ。そういうのは危ないことだと思ってる。
──表現に携わる人は皆、過去の作品を乗り越えようとするわけじゃないですか。だから結局のところ、最後の敵は自分自身だという境地に達するように思えるんですが。
吉野:そうだね。うっかり自分に負けて、ラクなほうに流れてっちゃうんだね。水が高いところから低いところへ流れていくみたいにさ。“もういいよ、疲れた! こっちに流れちゃえ!”っていうふうに、間違ってることはうっすらわかってんだけど、聞こえないフリをしてみたりね。それは負けだよね。人の心はそんなにタフじゃないから厳密に闘い続けることは難しいし、時には聞こえないフリをするのも大事なんじゃねぇかなと思うところもある。でも、それを正当化したくない。正当化することと肯定化することは別だと思うんだよね。人間の弱さを肯定することは大事。その弱さが愛おしいところでもあるし、哀しいところでもあるのを肯定したいけれど、だからと言って、“みんなも弱いんだから俺だって弱くてもいいじゃない?”っていうのは正当化なんだよ。それでいいわきゃねぇわけ。弱いのがわかってんなら何とかせぇや! と思うね。だって、“みんな”の問題じゃなくて“自分自身”の問題なんだからさ。自分が弱いんだったら、弱い自分を正当化しようとするんだったら、もっとまっすぐ苦しむべきだよ。ただ、余りに耐えられなくて逃げちゃうこともあるとは思うよ。それは肯定したいところだけど、正当化することで納得しちゃいかんと思う。やっぱり、いくつになっても真っ当に苦しまないとダメなんだよ。…そういう映画だったと思う、総括すると(笑)。
──はははは。いきなりまとめに掛かりましたね(笑)。
吉野:やっぱり、答えは自分自身で探さないと。誰かに何とかしてもらおうと思ったってダメなんだよ。この映画のチビ助も、最後は自分なりの答えを出したわけじゃない? だからこれも、肯定化はしてるけど正当化はしてない映画だと俺は思うんだよね。
英国史上最高との絶賛を浴びた青春映画の新たな傑作!
THIS IS ENGLAND
監督・脚本:シェーン・メドウス/撮影:ダニー・コーエン/音楽:ルドヴィコ・エイナウディ/編集:クリス・ワイアット/キャスト:トーマス・ターグーズ、スティーヴン・グレアム、ジョー・ハートリー、アンドリュー・シム、ヴィッキー・マクルーア ほか
2006年イギリス映画/カラー/98分/ビスタサイズ/DLP上映
字幕監修:TAYLOW(the 原爆オナニーズ)
提供・配給:キングレコード、日本出版販売/後援:駐日英国大使館 貿易・対英投資部
(C)WARP FILMS LIMITED. FILMFOUR, THE UK FILM COUNCIL, EM MEDIA, SCREEN YORKSHIRE
2009年3月14日より、シアターN渋谷にて不況撲滅ロードショー!
www.theater-n.com
03-5489-2592
大阪:シネ・ヌーヴォ/4月4日(土)より、名古屋:名古屋シネマテーク/春以降、京都:京都シネマ/春以降、広島:横川シネマ!!/春以降、沖縄:桜坂劇場/5月以降…と全国で順次公開決定!
『THIS IS ENGLAND』official website
http://www.thisisengland.jp/