ギター 編集無頼帖

あゝ青春

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 軽くアル中かなと思いつつも身体が欲して昼前から飲酒。頂いた白角淡麗辛口、少々喉につかえるが旨い。すぐに眠くなってウトウトしていたら、テレビから「“包帯クラブ”に入ろうよ」という声がして目が覚める。妙に滑舌の良い石原さとみの声で、それが2年前に公開された映画だとすぐに判った。
 この映画の関係者の方とは、とある仕事に携わった時に知己を得た。ちょうどこの『包帯クラブ』の撮影真っ只中で、作中の舞台である群馬県高崎市と東京を激しく行き来している、と聞いた。主役が石原さとみでその母親役が原田美枝子なんですよ、と聞いて、余りにストライク・ゾーンなキャスティングだったので記憶は鮮明である。
 余談だが、今は映画の仕事をされているというその関係者の方はかつて音楽誌の編集業をされていて、その方が手掛けた某バンドの青春小説は僕が中学生の時に大ベストセラーになっていた。昔から雑誌の編集後記や単行本の奥付や映画のエンドロールをあざとく見る習性があったので、当然その方のお名前はよく知っていた。
 で、その『包帯クラブ』なのだが、とても面白かった。非常に良くできた映画だと思う。学校や家庭の抑圧に抗う術を模索してジタバタする感覚。昨日までの仲良しグループが次の日には瓦解してしまう脆さ。その理由として挙げられる、ちっぽけだがちっぽけなりの確たる個々人のプライド。己の弱さを責めつつも問題の根源から逃避してしまう心理。そのどれもが手に取るようによく分かり、登場人物と同じ年齢の頃の自分を思い返して勝手に赤面してしまった。
 また、敵と味方を単純に二分化する“大人は判ってくれない”的なステレオタイプの青春群像劇では到底説明しきれない心の動きを、この『包帯クラブ』は巧妙に描写している。立ち向かう敵に対して露骨に嫌悪感を突き付けるばかりが蒼の時代ではない。たとえその相手のことを気に食わなくても、腹の中で舌を出しながら人懐っこく微笑むしたたかさも彼らは備え持っている。人間誰しも、心の中では天使と悪魔が綱の引っ張り合いをしているものだが、多感な十代の頃はその純度が高く、綱を引く意義みたいなものに明確な理由付けをしながら行動に移そうとするものだ。その意志は何処までも無垢で、でもだからこそ余計にタチが悪い。でもだからこそ、愛おしくも思える。妙に物分かりが良くなって、本意とは異なる意見をも呑み込めるようになった今の僕には、彼らの本気がとてつもなく眩しい。
 青春とは、広大で深遠な心の空虚を埋めることに躍起になる季節である。少なくとも僕にはそんな頃合であった。埋めてくれるものであれば、それが無味乾燥なものでも構わない。充足に似た心地良い徒労に何よりも価値がある。中身などどうでも良いのだ。心の穴が何がしかでギュウギュウに詰まりきったことが大切なのである。だから難しい語彙で屁理屈を並べることが当時の僕にはとても大事で、坂口安吾が生涯を懸けた無頼の本質だとか、澁澤龍彦の説くバタイユのエロティシズムだとか、稲垣足穂の論ずるA感覚とV感覚だとか、ビートルズがポピュラー・ミュージックにおいて果たした意義の時代背景を交えた考察だとか、イギリスのモッズ・カルチャーと日本の愛国心との比較だとか、その本質などまるで理解していないくせに背伸びばかりして、したり顔になることに酔いしれていた。聡明な振りをするのがうたかたの快楽だったのだろう。それが『包帯クラブ』の主人公たちには街の至る所に包帯を巻く行為だったのではないか。
 映画の舞台になった高崎の街については何も詳しくない。ただ一時期、断片的に知り得たことがある。高崎観音も渋滞した車の中から眺めた程度である。でもちょっと、甘酸っぱい気持ちにはなった。その甘酸っぱい気持ちを抱く要因になった日々からも、日々抑圧と対峙していた十代からも、今は思えば遠くへ来たものである。聡明であることはむしろ一番望んでいない事柄になった。今も明日仕事があるというのに、浜田山方面のお誘いに乗ってこれから痛飲する予定である。会いたい所へは、何があっても行くのだ。これでいいのだという赤塚先生の教えが今唯一の心の拠り所である。
 写真は、『探偵物語』出演時の原田美枝子。この人のエバーグリーンさは格別だ(笑)。
posted by Rooftop at 01:50 | Comment(0) | 編集無頼帖
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